No.330

チームラボのチームラボプラネッツと
金沢21世紀美術館レアンドロのプールの
アートっぽいエンターテイメントの共通性。
(芸術は大衆に迎合するべきか?
現代の哲学や思想と同じ問題を抱えている)

text : mama(美学者母)
2019年6月24日(月曜日
)執筆

 

「日本人はバカになっている。」
この様な言葉を、
日本の哲学者や思想家、
社会学者が言い始めて、
尚いわけですが、
僕も同じ様に考えているわけです。

 

例えば日本の民主主義でも、
選挙を考えると、
国会議員でも地方議員でも、
人気投票になっているわけです。

選挙というのはそもそも、
表面上の人気投票では無いわけですが、
もはや表面上で判断されているのは、
自明になっているのです。

そして様々な情報を届けるメディアも、
また「日本人」つまり、
「日本の大衆」つまり、
「バカな日本人」に合わせて、
低レベルな表面的情報、
または情報とも呼べない様な、
どうでもいい情報を、
「大衆に合わせて」発信しているわけです。

それは当然「資本主義的」に、
情報発信をビジネスとしているわけで、
その受け手のほとんどが、
「バカな日本人」なわけですから、
その「ニーズ」に、
商品である「情報」の質を落とすことが、
経済合理性を持っているから当然です。

しかし多くの哲学者や思想家、社会学者は、
この事に非常に危機感を抱いていると同時に、
諦めの領域にまで達しています。

これは「日本人の堕落」なのでしょうか?
それとも「経済合理性」なのでしょうか?
はたまた「日本文化の問題」なのでしょうか?

 

そして「日本」は、
この様なポピュリズムにおける、
「負のサイクル」から抜け出す事が、
できるのでしょうか?

 

私はアーティストですので、
この様なポピュリズムの問題に関して、
アートの側面から分析してみたいと思います。

先日金沢旅行に行き、
以前から行きたかった、
金沢21世紀美術館に行ってきました。
何かとメディアで取り上げられている、
美術館ですので、
一度は行っておきたかったのです。

そして何が大衆を惹きつけているのか?
それをリサーチしたかったのです。

 

金沢21世紀美術館のメインになる作品は、
やはり中央に配置されている、
レアンドロ・エルリッヒの、
「スイミング・プール」という作品です。

様々なメディアで紹介されています。
この作品はインタラクティブな作品であり、
また観賞者が相互にコミュニケーションを持つ、
その様な仕掛けがある作品です。

しかし私から観ればこの作品の芸術性は、
非常に少なく、
むしろエンターティメントに当たるものです。

この作品を考えたときに、
まず一番最初に思い浮かんだのは、
私が昔から批判している、
チームラボとの類似性です。

以前にもチームラボの事は書いています。
以下参照
「チームラボが草間彌生のパクリである理由」

https://www.machromatic.net/column_0151.html

 

私はチームラボは、
エンターテイメントであり、
アートという言葉を、
自分たちの価値担保に使っているだけで、
ユニバーサルスタジオジャパンや、
ディズニーランドと変わらない、
だからチームラボと相対化するのは、
アートではなく、
エンターテイメントと相対化させるべき、
その様に考えています。

つまり、
金沢21世紀美術館も、
レアンドロ・エルリッヒの、
「スイミング・プール」を、
メインに設置しているわけですから、
相対化し比較する対象は、
ユニバーサルスタジオジャパンや、
ディズニーランドであるという事です。

ちなみに、
チームラボプラネッツとういのは、
2019年4月時点で来場者100万人を突破、
金沢21世紀美術館は、
2018年度の入館者数が258万591人で、
過去最高を記録したという事です。

 

これは先述した政治の話、
つまり民主主義のポピュリズムと、
完全に同期した現象となっています。

これはどういう事かというと、
エンターテイメントを、
アートという売り文句で、
観賞者を楽しませて、
「ほらアートって楽しいでしょ」、
とエンターテイメントで、
楽しませているのに、
大衆にはアートを楽しんでいると、
思い込ませているわけです。

 

ではなぜこんな事をするのかというと、
それはまさに「経済合理性」です。
昨今「無駄」というものが、
大衆は許さなくなっているわけです。
ちゃんと「経済合理性」がなければ、
大衆に支持されないわけで、
そもそもそれ自体が存続できないわけです。

つまり政治も芸術も同じで、
「大衆の支持」がなければ、
そもそも「存続できない」、
それが現在の民主主義や資本主義の弊害であり、
それがポピュリズムの弊害なのです。

そもそも芸術は、
このポピュリズムに対して、
つまり人間の本質的な問題に対して、
大衆が観えていない世界を、
いかに表現するのかというものが、
芸術なのです。

つまり「本物の芸術」は、
「大衆には観えない」というのが、
芸術にとって自明なのです。

だからこそ、
大衆にとって芸術は理解できないもの、
それが「芸術」なのです。

しかし理解できないからこそ、
大衆は芸術を観るべきであるという事を、
ここで強く言っておきます。

 

では現代において、
様々な問題に共通するポピュリズムの問題ですが、
この問題をどう解決していくのかですが。

私が行っている解決方法は、
まさに、
「切捨て」なのです。

 

つまり「バカに付き合っている暇は無い」、
この言葉につきます。

僕の場合ドラスティックに、
バッサバッサと切り捨てています。

何故ならばそこには、
理解し合えない次元が存在するからです。

 

私は以前この様な文章を書きました、
「優遇されないという生き方。
(オープンでフェアな世界の実現の為に)」

https://www.machromatic.net/column_0329.html

 

つまり「大衆=社会」、
これらとコネクションしないという生き方、
それが今本質的に生きる事に必要な作法です。

ですから「ひきこもり」という問題は、
ある種現代において、
人間の防衛本能的に「美しい」とさえ、
言えると考えています。

その上で私たちは、
「大衆迎合」する事なく、
自らの哲学や思想を信じ、
独立し精神的に自立した人格同士が、
少しづつでもコネクションし合い、
本当に美しい世界や社会を実現していく、
私が今生きている、
その上で最大限出来ることは、
全力でそれに取り組む事、

それがまさに「生きる」という事なのです。

 

 

 

美学者母

 

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