No.396

「舐達麻の人気とその理由」
(演繹と帰納、ロックとヒップホップ、
科学と芸術、部分と全体、近代と現在、
中央集権と分散化、マクロとマイクロ。)

text : mama(美学者母)
2020年11月18日(水曜日
)執筆

 

(大きな物語の終焉)

哲学的に言えば、
「大きな物語」の終焉。

これはフランスの哲学者、
ジャン=フランソワ・リオタールが、
1979年に「ポストモダンの条件」で提唱した言葉である。

私が生まれたのは1978年11月なので、
「大きな物語」の終焉と同じく生まれた事になる。
それは40年以上前である。
しかし日本においてそれを実感するのは、
1990年代のバブル崩壊を待たなければならない。

1990年代にバブルは崩壊し、
2000年代に入りインターネットは爆発的に普及し、
より一層「大きな物語」の終焉を感じずには、
居れなかったはずである。

その2000年から2020年の現在まで、
「失われた20年」とも呼ばれている。
つまり私達は、 まだ「大きな物語」を、
取り戻そうとしているのである。

私は1997年頃からインターネットや、
パソコンでイラストレーターや、
フォトショップを使ったデザイン。
それらをヒップホップや、
スケートボードなどのストリートカルチャ、
の表現方法として、
アーティスト活動を始めた。

3年ほどは、
ストリートでグラフィティライターとして、
活動もした。

私はプロ野球選手を目指し、
鳥取県の倉吉北高校へ野球留学し、
高校卒業後、
大阪に戻って高校新卒で、
当時、日新製鋼という、
東証一部上場の大企業に、
現業職として入社した。

当時は就職氷河期である。
しかし入社と同時に、
定年前のおっさんばかりの職場に配属され、
なんというか、
自分の人生の末路を観たのである。

これは「やばい」と確信した。
今から思い返せば、
この直感が、
「大きな物語」の終焉だったのかもしれない。

日新製鋼を半年くらいで退社してからは、
とにかく自分の信じる道、
そして自分の美学、
自分のルールに従って生きようと誓った。

今でも忘れないが、
日新製鋼の人事に、
「お前は絶対一生後悔するぞ」 と捨てゼリフを吐かれたことは、
今でも私のモチベーションである。

そしてその「日新製鋼」は、
実質的に日本製鉄に吸収され、
唯一の高炉である呉製鉄所は閉鎖、
私が働いていた堺製造所も、
無くなる予定である。

やはり、
「大きな物語」は終焉していたのである。

つまりバブル崩壊後の日本において、
特にインターネットが普及した、
2000年代において、
「大きな物語」は終焉し、
近代は完全に終わったのである。

 

(ロックとヒップホップ)

私は1993年頃には、
日本語ラップや日本語レゲエを聞いていた。
私が中学生の時である。
レゲエだったらVIPクルーのBOYKENの、
「ちょっとまった」とか、
当時はダミ声のラガマフィンを、
日本人が歌っているのは珍しく、
めちゃカッコ良いと感じたのである。

「THE BEST OF JAPANESE HIP HOP vol .3」は、
今でもCDがあるし、
大阪レゲエの「レゲエちゃうの?」は、
衝撃的であった。
これもまだ持っている。

つまりここで何が言いたいのかというと、
日本のヒップホップ黎明期から、
私は日本のヒップホップを観ているし、
実際1999年から3年程度、
グラフィティライターで活動もしている、
それが嘘偽り無い事実だということ。

しかし当時、
ロックのブルーハーツにもハマって、
丁度ロックとヒップホップの潮目、
その様な時代感であった。

でも当時日本語ラップは、
ダサイというイメージがあり、
現実的には日本語ラップを、
聴いているものはほとんどおらず、
ヒップホップもUSが中心であった。

ロックからヒップホップへの、
ポップミュージックの変化は、
まさに現在結果として視認できる、
そのレベルに達してきている。

私たちが10代の頃に、
すでにアメリカでは、
ヒットチャートに、
ヒップホップが入っており、
その当時から、
日本はアメリカの10年〜20年、
遅れているからという話が、
通説であった。

実際に20年以上遅れて、
この2020年に表象されている。
これは芸術論的にも分析できる。

ロックは舞台を必要とし、
その舞台は客席とは高さが高く、
バンドセットを要する。

つまりそのシチュエーションが、
非常に近代的であり権威主義的なのだ。

それに比べヒップホップは、
ストリート発祥で、
ラッパーと観客の垣根は無くフラット。

そして誰もが、
ラッパーでありそこには、
舞台とそれを観る観客という、
絶対的な境界はないのである。

さらに、
ロックは「夢想」を歌い。
ヒップホップは「日常」を歌う。

つまり「夢想」とは、
ありもしなかった「大きな物語」である。
それは「マクロ」である。

そしてヒップホップは、
「日常」を歌い「現実」を歌う。
それは「マイクロ」である。

これらは音楽の変遷を通じて、
「マクロ」から「マイクロ」への変化を、
現実的に表象している。
この流れを芸術的に考えると、
2007年に水戸芸術館で開催された、
松井みどりキュレーションの、
「マイクロポップの時代」が、
記憶に残っており、
私は実際にこの展覧会を観ている。

まさに、
「マクロ」から「マイクロ」、
「中央」から「分散」、
その様な時代にすでに入っていた。

 

(ブロックチェーンの中央から分散)

前述した様な「中央」から「分散」という動き、
それはテクノロジーでも、
あらゆるものに表象してきている。

それで言えば、
インターネットは、
「大きな物語」や「近代」を、
完全に終わりに追い込んだテクノロジーである。

例えばテレビやラジオは、
中央から多くの人々へ情報を届ける手段として、
近代において大きな役割を担った。

そしてそれにより「大衆」というものを生み出し、
「大きな物語」をより促進させた、
テクノロジーである。

しかしインターネットの普及が、
加速度的に広がり、
誰もが情報発信者であり、
誰もが情報受信者である。
その様な「分散」が生まれた。

これは、
「大きな物語」の終焉には、
致命的なものとなった。
そして現在進行形で進む、
「中央」から「分散」という動きに、
非常に重要なテクノロジーとして、
ブロックチェーンがその頭角を現してきている。

ブロックチェーンではビットコインが有名である。

ビットコインはまさに、
P2Pの分散化台帳技術である。
しかしこのブロックチェーン技術は、
ビットコインの様な暗号資産や価値保存だけでなく、
これから「分散化社会」において、
非常に重要な技術となることは明確である。

 

(科学と西洋思想の終焉、部分と全体)

西洋思想やそれを原理にした科学は、
「絶対的」「絶対性」、
つまり究極的に「絶対」を信じる。
それは演繹的な思考である。

※ 添付図参照

つまり前提が真であるならば、
結果も真である。
それが演繹である。

そしてこれは全体と部分という、
世界の認識の方法で考えるならば、
その部分に絶対性を、
求めるという事に他ならない。

しかし人間は、
どの様に人間らしさを獲得したのだろうか、
それは「もの」と「意味」を、
並列に思考する「並列思考」であり、
その事により人間は、
創造性を獲得し、
「余計」なことを思考する事で、
「芸術」を獲得したのである。

つまり「人間」とは「余計」な事を、
考え創り出すものが「人間」なのである。

それはつまり「帰納」であり、
それは前提が真であるからといって、
結果が真ではない。

そしてこれは全体と部分という、
世界の認識の方法で考えるならば、
その部分に絶対性を、
求めないという事に他ならない。

部分は常に全体によって定義され、
部分は常に変化するものである。

この様な帰納的な考えは、
芸術の原理となっており、
この様な文化や思考方法を、
日本文化は内包していた、
それは日本の土着的な様々な問題、
地震や津波など環境の変化と共に、
日本人の営みは形成され、
人間も自然である。

だからこそ常に変化し、
スクラップアンドビルドを、
繰り返しそれを人間の営みとして、
生活に内包してきたのである。

つまり日本人は、
部分と全体で言えば、
全体として生きてきたのであり、
部分的絶対性、
つまりここで言えば、
人間という絶対性を、
求めることをしてこなかったのである。

この事は、
芸術において、
西洋的芸術観に対し、
理解しがたい日本人が多い原理である。

またこの様な、
全体や環境、
または関係性をベースにした価値観は、

仏教の縁起や空の概念に通ずるものがある。

 

(演繹と帰納の芸術学)

※ 添付図参照

私たちはいかに不安定で不完全な、
世界に存在しているのか、
私たち人間は忘れてしまっている。

それはあまりにも科学技術が進歩し、
演繹的に導かれた結果が、
私たちの世界に溢れかえり、
私たちの生活を覆い尽くしている。

その様な状態であるからである。

しかし現実として、
私たちは不安定で不完全な世界に、
現に存在しているのである。

だからこそ、
現在の日本人は、
古来日本人が持っていた文化や価値観、
それを失い、
西洋的思想や哲学に基づいた、
科学は受け入れるが、
芸術は受け入れない。

その様な拗らせた人間や社会が、
様々な場所や場面で、
日本の衰退や、
日本人の病理を推し進めている。

それを論理的に認識するのに、
演繹と帰納を改めて考察することは、
非常に有用であるので、
ぜひ添付図を参照していただきたい。

本来人間は帰納的思考を発露とする。

それは個別的、特殊的なもの、
つまりそれは「個人的」なもの、
それを前提とし、
そこから一般的、普遍的であるものを、
見出していく。

そして帰納において、
前提が真であるからといって、
結果が必ず真であるとは限らないわけである。

本来人間は、
個別的、特殊的な前提を原理に、
生きているものである。

しかし私たちは、
この帰納的営みを忘れ、
演繹的に担保された科学技術の結果を、
無思考に受け入れ、
科学技術を無自覚に受け入れている。

つまり西洋思想、西洋哲学を原理にした、
科学や医学を信仰し、
その科学や医学のエビデンスを絶対的に、
無自覚、無思考に信仰するのである。

しかしその科学さえも、
その科学の演繹の前提になるものは、
帰納の結果なのである。

つまり科学の演繹性の前提である、
一般的、普遍的前提は、

帰納による個別的、特殊的な前提から、
導き出された結果としての、
一般的、普遍的な結果である。

ここから理解できることは、
私たちは帰納を原理として、
人間は生きているということである。

それは個別的、特殊的な前提であり、
その結果は、
前提が真であるからと言って、
結果は真であるとは限らない。

それは簡単な言い方をすれば、
科学や医学も含め、
ありとあらゆるものに、
絶対はないのである。

それは帰納を無視した、
演繹的世界観が「大きな物語」であった、
その様な事が言える。

また「大きな物語」の終焉は、
演繹的世界がフィクションであり、
私たちは個別的であり、
特殊的である事に、
再度目覚めたと言い換える事ができる。

私たちは現在、
演繹と帰納、
ロックとヒップホップ、
科学と芸術、
部分と全体、
近代と現在、
中央集権と分散化、
マクロとマイクロ。

まさにこの様な、
パラダイムシフト、
の真只中に存在している。

 

(舐達麻の人気の実例)

では最後にこの様な現在の、
パラダイムシフトの実例として、
ヒップホップグループの、
舐達麻を紹介をしたい。

舐達麻は、
日本のヒップホップシーンでは、
過去に例のない規模で、
人気を博している。

しかし彼らは、
実際に日本の裏社会と繋がり、
体中刺青で、
ミュージックビデオでは、
マリファナを吸引し、
自分達の犯罪や、
生きてきた過去、
そして現在の営み、
それらを等身大にラップしている。

舐達麻のビジュアル、
犯罪歴や麻薬の使用、
ラップの内容、
様々な意味で、
一般性や普遍性がないのである。

つまり舐達麻は、
帰納的なのであり、
ヒップホップとは帰納的なのである。

逆説的に、
ロックは演繹的であり、
一般性や普遍性を歌い、
そこから聴く側に、
個別性や特殊性を受け取ってもらう。

しかし、
舐達麻は、
帰納的に、
個別性や特殊性をラップし、
聴く側に一般性や普遍性を受け取ってもらう。

つまりここから理解できるのは、
一般的、普遍的な前提が、
崩壊しているからこそ、
その前提をロックなどで、
歌われたところで茶番に聴こえる。

それがフィクションである事を、
生々しく感じシラケルのである。

しかし等身大で現実的な、
個別的、特殊的な前提の方が、
人間誰しもが実際に現実に体験する、
自分自身の個別的・特殊的な前提に、
照らし合わせる事で、
その個別性や特殊性の具体的な内容が、
全く違っても、
それを現実的に共感し、
現実的に捉える事ができる。

つまり綺麗事ではなく、
誰しも疾しいことをするし、
誰しも悪いこともする。

誰しも弱いし、
誰しも汚い。

ロックが歌う、
理想郷の様なイメージ、
ユートピア。

それはまさに、
演繹的に導かれる、
究極的な結果なのかもしれないが、
現に人間とは、
帰納的な存在である。

人間とは個別的、
特殊的なものである。

つまり「舐達麻」が人気なのは、
帰納的な世界になっている表象である。

しかしそれ自体も個別的・特殊的であり。

現在においての人気という概念も、
マイクロポップなものなのである。

例えば明日学校や会社に行って、

「舐達麻ってめっちゃ人気らしいで!!!」

と会話しても、
誰も知らないというのが、
現在の世界の現実である。

それが良いのか悪いのか、
善なのか悪なのか、
それもまた個別的、
特殊的である。

 

ただただそうなのである。

 

 

美学者母

 

 

 

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