No.392

(総括)通算44回切断芸術展に参加して
彦坂尚嘉さんにブロックされるまで
(現在において執著することや
言葉と行動の不一致のリスク)

text : mama(美学者母)
2020年9月20日(日曜日
)執筆

 

(総括として)

2020年9 月20日現在として、
彦坂尚嘉さんにfacebookでブロックされましたwww
逆にここまで私が思い描いた様に、
彦坂尚嘉さんが反応し行動すると、
私的には予想外なのですが、
結局人間とは弱いものだと、
再確認できたと考えています。

(添付図参照)

 

さらに添付図の様に、
過去の「切断芸術運動」のテキストでは、
ゲストを招いた理由を語っています。

「閉じられていなくて、開いている必要がある。」

「この自分のグループの外部の活動も
見ている開かれた まなざしは重要なのです。」

しかしその延長線上に「排除」があるならば、
それはただ単に異分子をスクリーニングするもので、
「切断芸術運動」は、
異分子をスクリーニングする「装置」ではないのか。

私にはその様に思えてなりません。

実際に私が知っているだけでも、
この「切断芸術運動」から、
「排除」や「脱退」された方が数人おられます。

さらに言えば、
ここ数年の彦坂尚嘉さんの言動を、
リアルタイムでフォローしていますが、
危うさを実感しておりました。

彦坂尚嘉さんは、
前衛美術という中でも、
さらに異分子として活躍されてきた方である。
私はその様に認識しております。

この様な異分子が力を持ち、
異分子が異分子を排除していく連鎖は、
良い意味でも悪い意味でも、
「世界の縮図」や「社会の縮図」、
その様なものを実感するのです。

私はこの様な事実からも、
現在まで連綿と続いている。
「フィクション」を原理とした「アート」から、
「シミュレーション」を原理とした「世界」へ、
完全に移行した事を体感しました。

それはもはや、
自分自身の、
「言葉」と「行動」が一致しない、
人間は生き残っていけない「世界」になった。

だからこそ音楽の世界でいえば、
イメージを歌う「ロック」は終わりを迎え、
リアルを歌う「ヒップホップ」が、
ポピュラーな音楽になってきたのだと体感します。

この事実は、
私がこうなってほしいという欲望ではなく、
現実としてそうなっているというものです。

 

(執著を捨てる難しさ)

「金」、「酒」、「色恋」。
「性欲」、「食欲」、「睡眠欲」。
「地位」、「名誉」。

人間は様々な欲に執著します。

それの根本的な原理として、
私達人間は「イメージ」を生きる事に、
その「欲への執著」の原理を観ることができます。
それはつまり、
「未来」や「過去」に持つ「イメージ」という、
「虚像」が私達の欲の原理であり、
その「イメージ」という「虚像」を、
自分のものにしたい、
または自分のもののまま守りたい、
という欲望、
つまり「我欲」こそが、
逆説的に「イメージ」の正体なのです。

そこから、
「イメージ」に生きることこそが、
「我欲」に生きることと同じなのです。

 

(シミュレーション世界に生きる作法)

現在において若者は、
「無欲」であるとよく言われています。
それは、
「イメージ」の世界は終わり、
「シミュレーション」の世界に、
パラダイムシフトした事を意味します。

それは現実的に、
事実として目の前にある問題や課題、
それが重要であり、
またそれをサヴァイブし、
解決していく事、
それは認識を変える事や、
実際的な行動を起こす事。

すなわち、
自分が持つ問題や課題とは、
自分が解決可能な問題や課題、
それを解決する事そのものが、
「幸福」である。

つまり「幸福」の定義が、
他人が創り出した「イメージ」を、
追いかけることが「幸福」であったものが、
自分自身が現に目の前に、
自分自身が解決可能な、
課題を設定し、
問題を発見し、
それを解決していく。

それが「幸福」という定義に、
パラダイムシフトした。

それは、
他人が創造したのに、
まるで自分の「課題」や「問題」と、
思い込んでいる「イメージ」を、
追いかけても、
追いかけても、
そのイメージには決して辿り着かない、
その様な「イメージ」の世界が、
幸福と思い込んでいた事が、
いかに不幸であったのか、
その現実を、
現在私たちは目の当たりしている。

 

(美術とかアートとかどうでもいい)

現在使われている言葉としての、
「アート」や「美術」という言葉は、
「イメージ」を原理にしているものであるのは、
私が最近書いている言説でも述べている。

そしてその「イメージ」の世界は終わっている。

つまり私にとって、
私のやっている事が、
美術とかアートなのかどうでもいいのである。

だから私は美術の世界や、
アートの世界にはまったく執著は無く、
むしろその世界の人だとは、
思われたくないし、
見られたくないのです。

なぜならそもそも私が考えている、
「アート」とは、
現在において「アート」というものの、
「外側」にあるものだと考えているからである。

つまり私はこの様な言論活動が「アート」だとか、
狭山美学校やお茶と美という、
事業が「アート」だというのは、
そういう原理に基づいてのもので。

さらに言えば、
現在のスマートフォンやパソコンで行われる、
通俗的な創造行為全てが、
「アート」であると定義されるものであると、
考えているわけだが、
それはまだ理解されない事なので、
イメージの世界の「アート」や「美術」という、
言葉を使わずには簡便にコミュニケーションできない、
だからイメージの世界の言葉を使っているだけである。

だからこそ、
私は現在においての、
「アート」や「美術」という言葉の定義に、
縛られ執著する事に危うさを覚えるのである。

その典型的なものが、
今回の彦坂尚嘉さんの、
「通算44回切断芸術展」の件である。

彦坂尚嘉さんは、
アートという定義や概念を広げてきた人である。

その様な認識から私は尊敬しているのです。

しかしその彦坂尚嘉さんが、
現在において、
アートという定義や概念に、
縛られ執著している様を、
目の当たりにすると、
非常な寂しさを覚えるのです。

この寂しさは尊敬があるからの寂しさです。

 

(現在においての最大のリスク)

私は今回本当に貴重な機会をいただき、
心から彦坂尚嘉さんに感謝しています、
また尊敬もしております。

しかし人間とは本当に弱い生き物であり、
自分が居心地のいい場所へと、
また安全な場所へと、
ホメオスタシスが働きます。

私も日々自分自身の弱さに絶望し、
反省を繰り返しながら、
アップデートをしています。

そして人間は「清廉潔白」ではありません。

悪いこともしてきたでしょう。

悪いことも考えるでしょう。

他人を裏切るでしょう。

他人に嘘をつくでしょう。

しかし現在においての、
最大のリスクは、

「自分自身に嘘をつく」

それが一番のリスクになる時代です。

「悪いことも良いことも」

全て含めて「私」である。
だからこそ、
その様な事を隠さず、
オープンソースに生きていく。

実はそれが、

「一番幸せな生き方」 なのです。

 

 

 

美学者母

 

 

 

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