No.384

私という分際
(黒瀬陽平、津田大介から反省する、
私という分際。
東浩紀という傘とは何か?)

text : mama(美学者母)
2020年8月3日(月曜日
)執筆

 

 

あ〜夏本番ですなぁ〜。
今日は朝から快便でありまして、
非常に清々しい朝を迎えております。

そういえば、
先日、
大阪大学の公開講義で、
森村泰昌さんの『コロナと芸術』、
というのを観させてもらったのですが、
これが非常に面白かった。

現在まさにコロナ騒動が、
ある種社会を強制的にパラダイムシフト、
させようと騒ぎになっている中で。

リアルタイムに僕たちに、
現実的に意味のある内容だった。

僕はこの様な森村さんの、
公開講義からも理解できるのは。
私達には「知恵」が必要であると、
強く実感するのです。

「今を生き抜く知恵」です。

世の中には、
「知識」をたくさん持った人間は、
たくさんいますが、
「知恵」を持っている人間は非常に少ない。

私はこの「コロナ騒動」の渦中で、
まさにその様な事を反省している所です。

 

まぁそんな41歳の夏なのですがwww

最近「アート」界隈で、
えらく騒ぎになっている事が、
黒瀬陽平の「セクハラ」「パワハラ」問題。
まず全く無関係の僕が、
黒瀬陽平の「セクハラ」「パワハラ」問題に、
何も言えることは無いわけです。

しかしもっと俯瞰し、
マクロな視点、
もしくは社会という視点、
世界という認識レベルで、
黒瀬陽平という人間を捉える。

その様な事は可能なわけです。

僕自身は「黒瀬陽平」という、
批評家、美術家には特に興味がなかったので、
今まで黒瀬陽平やカオスラウンジには、
言及してこなかったのですが。

今回この様な「騒動」が起こっており、
僕の認識にも自然に入ってくるので、
とりあえず、
美学者母は黒瀬陽平やカオスラウンジを、
どう認識しているのか、
その様な言説を残しておこうと思います。

 

まず以前から言説している通り、
僕のアートの原点は「ストリート」です。
1998年頃からスケートボード、
グラフィティライター、
アート活動を始めています。

その上で、
2000年頃には現代アートや現代美術、
その方向へ転換し、
2002年には村上隆主催の、
「GEISAI#2」に参加しています。

先ほどググッてみた所、
GEISAIのWEBがまだあり、
GEISAI#2の出展者一覧で、
ブースNo.C139にmamaとして、
まだ記録が残っていましたwww

この時は隣の方が、
MAYAMAXX賞を受賞したので、
凄く覚えておりますwww

という事で、
私は村上隆からの流れで、
東浩紀や黒瀬陽平を認知しました。

ですので、
ほぼメディアに出だした、
初期の頃からずっと観てきています。

wikiでは、
黒瀬陽平は2008年に、
東浩紀にフックアップされているので、
まぁ初期から知っているとなります。

そして「カオスラウンジ宣言」が、
2010年4月に宣言されていますが、
僕は2010年5月に、
「ウェブアート宣言」を宣言しています。

まぁ色々思い返すと懐かしいのですがwww

それから考えると、
10年以上はカオスラウンジを観ています。
その上で言説を進めていくわけですが、
私はアート活動をしていく上で、
その当初から「インディペンデント」、
または「独立独歩」を貫いてきています。

しかし当然ですが、
様々な方々にお世話になってきており、
それは非常に感謝をしているわけです。

ストリート関係で言えば、
僕が初めて個展をしたのは、
スケートボードショップです。
そのショップのオーナーには、
かなりお世話になりました。

また現代アートで言えば、
非常にお世話になったグループ、
また美術家の方もおります。

僕が美術の基礎を学んだのは、
岸和田の画材屋さんです。
その画材屋さんのオーナーにも、
とてもお世話になりました。

それは美学者母が、
成長していく上で欠かす事が、
できないものでした。

しかし私は、
自分の人格や定義、
もっと言えば、 部分関数の、
部分としての「我」、
または「私としての意識」。
それらを無意識に定義してくる、
全体というものを、
特定の個人や団体、
グループやコミュニティに、
依存しないという作法を、
頑なに守ってきました。

それは「アートの原理」として、
「自我の自立」「人格の自立」が、
もっとも「根幹を成す」、
その様な哲学があるからです。

私はこの様なコンテクストから、
今回の黒瀬陽平の問題、
もっと言えば、
あいちトリエンナーレでの、
津田大介の問題。

それらを纏めて理解する事が、
原理的に可能だと考えています。

 

つまり、
「黒瀬陽平」然り「津田大介」然り。
明らかに次元が低い、レベルが低い。
そしてその次元の低さ、
レベルの低さ、
それを一般的に盲目化させているのが、
「東浩紀」という、
「知性」であり「知恵」であり、
またある種の「権威」であるわけです。

これは結局、
「黒瀬陽平」や「津田大介」は、
「人格や自我の自立」が、
根本的に成立していない人間だという事で、
さらにそれは、
「東浩紀という傘の下」でしか、
成立していないものである。

 

人間は原理的に「傘の下」でしか成立しない。
だからこそ「自分の分際」を忘却してはならない。
それは私も同様である。

しかし自分自身が「傘」になる事、
それを諦めてはならない、
「自分の分際」を認知し理解しながら、
「傘そのもの」になろうとする営み、
それが「生きる」という事であろう。

 

つまり「自分の分際」、
「自分の傘」を見失った事自体が、
今回の「黒瀬陽平」であり、
前回の「津田大介」なのである。

 

仏教の教えで、
「自灯明法灯明」があります。

自分をともしびとして、
自分をよりどころとして生きていきなさい。
法(真理・お釈迦様の教え)を、
よりどころとして、
他のものをよりどころにしてはいけません。

 

つまり他人というもの、
それを拠り所にしてはダメである。

それは「私」という、
「人間」や「人格」の定義を、
他人という「人間」に求めず、
「自分」そのものに求める。

つまりそれは、
「覚り」を体験するという事である。

その修行として私は、
日々反省し、
フィードバックし、
自らをアップデートし続けなければ、
すぐさま私自身も、
「私の分際」に対して、
盲目になるのである。

 

 

 

美学者母

 

 

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