No.382

なぜ私が、批判的精神、批判的思考であるのか。
(真理とはあると同時に無いのである)

text : mama(美学者母)
2020年7月11日(土曜日
)執筆

 

 

まず人間が真理に少しでも近づこうとする時、
一番重要な事は、
疑う事、
懐疑的である事である。

具体的な事例で言えば。
「私は存在する。」
貴方がこの文章を読んでいて、
「私は存在する。」ということに対して、
そこに疑う余地はあるだろうか?
普通はそこに一切の疑いの余地はないであろう。
何故ならば、
現に「私は存在する。」からである。

しかしその様に自明性の様に思い込んでいる、
その様なあらゆる概念や意味、
現象や存在。
その様なものこそ「疑い」「懐疑的」に思考する。
それが私の言う「批判的精神」「批判的思考」である。

そして私がこの様に日々綴っている言説は、
そのほとんどが「批判的精神」「批判的思考」、
それに基づいて言説している。

私は「趣味趣向」や「感情論」で批判している訳ではない。

それはある一定の知的次元や知的作法、
において共有可能なものである。

その共有が多数の方々とできている事は、
私は理解しているし実感している。

しかしまた別にある一定数、
私の本位とは異なる次元において、
私の批判を受け止めている方々が居る。
またその様な事実もある事を、
私は十二分に理解している。

この様な次元の違いによる、
ある種「大衆」とのコミュニケーション不全は、
どの様な時代にもあるものであり、
現代にもその様な問題を私は多数散見し、
私自身もその解決を模索する一人である。

私がこの様なある種のコミュニケーション不全を、
何故解決しようとするのか、
それはそのコミュニケーションの当事者同士はもとより、
社会全体にとっての損失であると考えるからである。

特に近代から現代に渡り、
あらゆるものが「民主化」される中での、
あらゆるものの「大衆化」が、
より一層「大衆の低次元化」を進め、
その「大衆の低次元化」による、
資本や権力の集中、
さらに知性や情報の集中が加速し、
社会に表層されない、
ある意味における「次元の格差」を、
産み出しいてる。

その意味において、
「民主的な連続性を創造する」という模索は、
現代において非常に重要なテーゼである。

その様な「連続性」を模索していると、
私が考えている著名な人々を例にし、
「民主的な連続性」を諦めず、
いかに創造していくのかを言説していきたい。

まず現代から過去へと、
その実践者を上げていくことにする。

それは例えば現代で言えば、
哲学者の東浩紀、
アーティストの村上隆である。
この二人に関しては、
まさにリアルタイムで、
「民主的大衆性」との「連続性」を、
いかに創造するかという模索を行い、
またその非常に難しい行為と、
真摯に向き合っている。

さらに世界的に言えば、
バンクシー、
そして過去から言えば、
アンディウォホールなど。

その痕跡を見出す事ができる。

 

この様に上げた人物たちの共通点として、
「民主的大衆性」との「連続性」の「創造」、
それが共通点としていえる。

しかしこの行為の危険性として、
その「連続性」が成功しても、
ある種「大衆化」する事で、
本来の「連続性」との分離が生じ。
「連続性」が無くなることで、
それがただ単なる、
「シンボル」や「スローガン」に、
「低次元化」してしまう事である。

しかしこれは正に「人間の真理」であり、
それは哲学者の西田幾多郎の言葉、
「絶対矛盾的自己同一」として集約できる。

つまり「人間の真理」とは「矛盾」である。
それは相対性において、
一つの極を「真理」とした時、
途端にその対極が「真理」となる。
しかし人間はその事は認知できない。

つまり「人間は真理にたどり着かない」のである。
「真理にたどり着かないという真理」、
正にそれに気づくことこそ、
「批判的精神」「批判的思考」なのである。

何故ならば「民主的大衆性」とは、
一つの真理に基づき、
それが「大衆化」され、
それが「自明性」を持つ。

その自明性こそが「フィクション」である。

そのフィクションに「自明性」が無いことを、
気づかせる事のできる存在が、
哲学者や美術家なのである。

私はこの様な、
「批判的精神」「批判的思考」の論理の中で、
より優れた「連続性」を創造した人物として、
大乗仏教における親鸞だと考えている。

例えば現在世界的に、
仏教における「禅」などが取りざたされている。
しかし例えば禅宗である曹洞宗などで考えてみても、
「覚り」に到達することを目指し、
自らの修行を行う事を前提としている。

しかし親鸞などの教えをベースにする、
例えば浄土真宗などは、
「南無阿弥陀仏」の念仏や、
「他力本願」など、
「真理」を簡素化しながらも、
「連続性」を持って実現している。

しかしここでも、
「他力本願」というものが、
現代では「他人任せ」などと認識され、
その「連続性」が「大衆化」によって、
分離されている現実もある。

 

ここまで「真理」と、
その「大衆化」が産み出す、
「連続性」からの「分離」、
そして「分離」後の、
「シンボル化」「スローガン化」。
つまり「他力本願」という、
概念的「次元の劣化」。

ではこの様な今まで述べてきた言説から、
私は何を言いたいのか。

 

それは、
常に「真理」は「大衆」には存在しない、
という事である。
その時に「真理」を指し示す方法として、
哲学者や美術家は、
「大衆」とは対極に立ち、
自明性を批判する事で、
仏教的な「中観」という認知や、
アウトラインを表出させるのである。

この様な考察から、
哲学者や美術家は、
「大衆」から観た「他力本願」でなければならない。

つまり覚りを体験したものでなければならない。

批判的であり得るという事は、
「大衆」が「スコトーマ」になっている、
その「真理」を「表出」させる、
という事であり、
その作法であり、
その思考である。

だからこそ、
私は大衆、
つまり「社会」とは対極に立ち、
その「社会」を批判的に捉え、

「中観」をこれからも、
アートを通して「表出」させていくのです。

 

 

 

美学者母

 

 

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