d
  

           

No.380

グラフィティ論
(日本でのBanksy作品の違法性を巡って、
創造者の原理を探る。)

text : mama(美学者母)
2020年6月19日(金曜日
)執筆

 

 

えっと、
美学者母です!!!

先ほど、
SNSで、
Banksy作と思われるネズミの騒動と、
日本の入管局における難民問題を併せて描いた短編映画、
『INVISIBLE -A Rat and Refugees』
をvimeoにて観させていただきました。
結局の所、
banksyというコンテクストを使いながら、
メインでは入管の問題を取り扱いたい映像、
その様なものです。

映像から理解できるのは、
あまりにも日本の難民問題と、
banksyの活動を無理やり繋げよう、
その様な意図が強すぎる。
またその接続が荒すぎる。
さらに映像作品として稚拙である。

まぁ今回はグラフィティ論ですので、
日本の入管の問題は様々な議論にお任せします。

 

私は1999年に大阪でグラフィティ活動を、
実際に大阪、
特に泉州やアメリカ村、
大阪ミナミを中心に活動していました。

さらに現在はアート活動をしている。

その様な立場から、
banksyや、
この映像で問題にしている。
歩道や歩道橋などに、
「FREE REFUGEES」(難民を解放せよ)、
「REFUGEES WELCOME」(難民を歓迎する)、
という落書きなど合わせて、
グラフィティ論として言説していきます。

 

まずグラフィティについては、
かなり昔に詳しく書いているものが、
ありますのでそちらをご覧ください。

「大阪・泉州のグラフィティ」
https://www.machromatic.net/s-graf.html

 

簡単に説明すれば、
アメリカのニューヨークで始まり、
ヒップホップカルチャーの、
一つの要素とされています。

基本的にはグラフィティは、
ヴァンダリズムをベースとしたもので、
体制に対する破壊行為として成立し、
大抵の国では違法行為です。

その上で、
グラフィティライターは、
違法性を理解した上で、
その活動を行うわけです。

私が活動していた1999年の日本では、
イリーガルに活動しているものが、
グラフィティライターである。
逆にそれをリーガルで活動している人間、
それはグラフィティライターでは無い、
その様な事は自明としてありました。

まぁそもそも、
グラフィティの定義上、
合法的である事自体が、
グラフィティでないことを、
同時に示すわけです。

それはグラフィティとは、
その描かれたものの「意味」では無く、
その活動全体、
つまり「違法性」も含めて、
初めてグラフィティである。
その様な背景があります。

その上で言えば、
家でグラフィティ調のものを、
いくら描いていても、
グラフィティライターでは無い、
行動が伴って初めて、
グラフィティであり、
グラフィティライターであるわけです。

 

では冒頭の映像作品での、
banksyの東京でのグラフィティの問題、
さらに日本の入管に対する、
落書きの問題。
この二つの問題は、
次元の違う問題であるのですが、
この映像作品では並列に描き、
観る人々に対して、
勘違いを起こさせる危険がある。

その様に感じたわけです。

 

まずbanksyが、
そもそもグラフィティライターなのか?
というそもそも論があります。
結論から言うと、
グラフィティでは無いと言えます。

むしろグラフィティというものに対し、
アートという構造を持ち込む事で、
新しい価値観を提供した先駆者と言えます。

例えば1980年代には、
アメリカのアートシーンにおいて、
グラフィティが注目を集め、
ストリートのグラフィティライターが、
ギャラリーなどで展覧会をし、
現代アートの一つのムーブメントとして、
成立していた時代がありました。

これはアートに対して、
グラフィティという構造が、
取り込まれたと言えます。

ですので1980年代に、
現代アートとして、
取り扱われたグラフィティとは、
真逆の現象がbanksyである。
その様にbanksyの特異性を、
言い表すことができるのです。

では 「FREE REFUGEES」(難民を解放せよ)、
「REFUGEES WELCOME」(難民を歓迎する)、
と描かれたものはグラフィティなのか?
これもまた結論から言えばグラフィティでは無く、
ただの落書きです。

まずグラフィティにおいても、
さらにアートにおいても、
「作家性」というものが前提にあります。
ただ自分が訴えたい事を書くだけなら、
暴走族や便所の落書きと変わりません。
そこに「作家性」があるからこそ、
それは「作品」になり得る可能性を持つわけです。

 

実際にグラフィティの世界では、
自分のタグネームなどを持ち。
名前には「King」や「王冠」を付けたり、
「one」などを付けることが多くあります。

それは「自分が一番」という主張であり、
またそれが街中に描かれることで、
その作家は「有名」になっていく。
その様な長期の「活動」が必要です。

つまり、
都合よく「グラフィティ的」な手法を、
その時だけ都合よく使うというのは、
ある種「グラフィティ」に反する。
その様な行為であり、
私は、
「FREE REFUGEES」(難民を解放せよ)、
「REFUGEES WELCOME」(難民を歓迎する)、
というものが継続的な活動には、
到底見えない事、
またグラフィティにおける「作家性」の無さ、
スタイル(様式)の無さ。
その様なものを勘案し「落書き」である。
その様に考えています。

 

では最後に「グラフィティ」とは何か?
その様な事を述べていきます。
この原理は「グラフィティ」に、
限る話では無く。
例えば「文化の創発」、
「イノヴェーション」、
「パラダイムシフト」など、
創造的行為に通底する原理としてあるものです。

それは「アウトライン」を「ブレイクスルー」する。
その様な創造的原理です。

またその様なものは、
「危機的」及び「涸渇」などの、
「ネガティブ」な状況から創発され、
それは多くの「文化創発」にみられます。

現代では「貧困」や「格差」などが、
具体的なものとして言えるでしょうが、
「文化」の「創発」は、
その様な所からしか生まれません。

つまり、
「アウトライン」とは、
国家で言えば「法」、
組織で言えば「ルール」、
コミュニティで言えば「掟」、
その様な事を「ブレイクスルー」、
つまりそれらに従わない事で、
新しいモノが観える。

逆に言えば、
国家で言えば、
法を守らないからこそ、
観えるものがある。
その様に言えます。

グラフィティとは、
「ヴァンダリズム」、
「体制」や「資本家」が、
全てを掌握していることへの、
アンチテーゼなのです。

つまりそれは、
「法」や「資本」、
それに基づいた、
「ルール」や「約束事」、
それらを守らないで、
「作家性」を持ち「有名」になる。

それが、
「グラフィティ」であるのです。

 

冒頭の映像作品で、
「法」の解釈などを専門家が、
力説しているシーンがありました。
それ自体が「グラフィティ」を理解できていない。
なぜなら「グラフィティ」に価値や意味や機能が、
唯一あるとするならば、
それは「違法」であるからなのである。

そしてそもそも、
自分たちが「合法化」される事も望まない。
それは同時に、
「体制」や「資本家」に支配される、
という事であるのだから。

私は別に「違法な行為」を進めるわけでは無く。

「文化」は総じてその様に産まれるものである。

昨今「コロナ禍」で、
世間の目に支配されて、
あらゆるものが「規制」されている。
または「同調」に従っている。

その様な現代の人間には、

非常に深刻な問題を感じる。

 

 

 

美学者母

 

 

 

美学者母のスポンサー、サポーターになるにはこちら↓
クラウドファンディングでスポンサー、サポーターになろう↓