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No.373

今芸術家がマスクをしない自由、
外出の自由を叫ばない事から、
いかに、あいちトリエンナーレでの
表現の自由が陳腐な芸術家の
虚言だったか理解できる。

text : mama(美学者母)
2020年5月3日(日曜日
)執筆

 

 

今芸術家で本当に「自由」を叫んでる人っていないよねwww

僕なんかは今こそ「自由」を叫ぶ時だと、
この言説を書いているわけです。

確か2020年2月頃には、
facebookなんかで繋がっている芸術関係の人は、
「集会の自由」を脅かされるとか言ってる人が居たけど。

政府の緊急事態宣言が検討し始めて、
「密」に対して「社会悪」の様にされ始めたら、
急に何も言わなくなってるのが本当にクズだなと。

そんな人間に限って、
「あいちトリエンナーレ」で問題になった、
「表現の自由」でグダグタ「自由の侵害」だ!!!
「自由の侵害」だ!!!
っていってた人たちなのねwww

つまりその人達が言ってたのって、
「芸術家」の為の「芸術家の自由」であって。
全く「実体のない自由」を叫んでいたわけです。

しかし今回の「コロナ禍」の様な実体が伴うと、
つまりその人達の「実体」、
つまり「芸術家」以前に、
「一人の社会人」としての立場を優先して、
「何も言わない人」になるわけです。

今回の「実体を伴った自由」の問題は、
まさに世界中のあらゆる「人」にとって、
眼前たる「現実」「実体」としての「問題」であり、
「家族」や「友人」、
「知り合い」や「近所の人」、
など「芸術」とは無関係の人々にとっても、
眼前たる「現実的問題」として、
今まさにその渦中にあるわけです。

それがまさに、
前述した、
あいちトリエンナーレでの「表現の自由」と、
「実体を伴った自由」の問題の次元の違いです。

つまり、
あいちトリエンナーレの様な「芸術」という、
ある種の免罪符を得ている様な環境では、
「表現の自由」を叫んでいた人間は。

結局は「社会システム」の中の「社会人」であり、
「芸術家」ではないのです。 なぜなら、
社会人以前性として「芸術家」であるならば、
まさにこの「コロナ禍」の「渦中」に、
「実体を伴った自由」が脅かされている「現実」にこそ、
「自由」を叫ばなければならないのが、
真の「芸術家」なのではないでしょうか。

しかし日本の99%の「芸術家」は、
それが「職業」であり「社会性」であり、
それが「肩書き」であり「権威」である。

つまり「芸術家」である以前に、
一人の「社会人」であり、
一人の「親」であり「子」であり、
一人の「組織人」であり「管理者」であり、
一人の「教育者」であり「学生」である。

ほんとんどの「芸術関係者」は、
「芸術」以前に「社会を構成する人」であり、
その「存在」は、
まさに「自由」という対象に対しての、
「観察の理論負荷性」が伴うのです。

 

ですから私からいえば、
今「自由」を叫ばない「芸術家」というのは、
クズでしかないのです。
とっとと「芸術」の看板を降ろせ、
その様に申し上げたいのです。

そして私は、
自由権に基づいて、
自由に物事を考え、
自由に行動できる権利に基づき。

「自由に外出し、行動し、移動しています。」

「外出に際しマスクを着けていません。」

これは現在進行形であり、
コロナ禍以前もコロナ禍以後もなんら、
私の在り方は一切変化がありません。

ここまで、
現に私の在り方として、
現実に実体を伴い行なっている事を、
言説してきました。

 

 

ここからは少し論理的な言説をしていきます。

私は、

「デリバティブアート宣言(芸術派生宣言)」 https://www.machromatic.net/

 

この様な宣言を2018年4月14日に宣言しています。

 

これはまさに現在の、
「実体を伴わない現実」を批判的に捉えた、
私の芸術作品です。

ちょうど2年前ほどに宣言しています。

まさに現在の社会とは、
「デリバティブ(派生物)」の社会になり、
その「実体」は全く意味を無くしています。

まさにこの作品は、
その真理に気づいてもらいたいという、
強い意志がある作品です。

そして現実として今回、
「コロナ禍」というまさに、
「実体」ではなく「概念」としての、
「派生」した「コロナ禍」。

つまり「意味」としての「コロナ禍」が、
まさに私たち、
つまり「世界中」の「脅威」であり「恐怖」、
そして「不安」であるわけです。

もはや「コロナウイルス」という、
「ウイルスの実体」は意味がないのです。

しかしこの様な「人間の世界」において、
この様な「派生的道理」というものは、
「人間であるがゆえ」しかたのないものでもある。

 

では私達はこの様な、
「現実」をどう生きていけばいいのか。

それはその様な「現実」である事を、
「引き受ける」事です。

 

これは正に私が尊敬する哲学者、
ヴィトゲンシュタインの哲学、
著書「哲学探究」の一節から引用すると。

「good morning」 という言葉は、
辞書的意味が「良い朝」という意味を、
知らない子供がいたとして。
その子供が、
「good morning」を、
午前中の挨拶の言葉として、
適切な状況において使用できたとすれば、
その言葉の意味を知っていると言ってよい。
逆に、
その辞書的意味が「良い朝」であると、
知っているがゆえに、
雨や雪の朝はこの言葉を使わない様な子供が、
いたとすれば、
その子は、
「good morniang」
の意味をわきまえているとは言えないであろう。

つまりヴィトゲンシュタインのこの言説から、
もはや言語レベルでも、
そもそも「実体」を伴わず、
「派生」として「機能」が、
私達にとって「重要」なのである。

そして私達人間は「重要」なものしか、
「認知」できないのである。
そして「芸術」とは時に、
その「重要」なものの「認知」を、
「パラダイムシフト」させる「機能」を有し。
時にその「認知不可能」な「重要」なものを、
「認知」させる「機能」を有している。

 

この様な事からも、
私が前述した「コロナ禍」の言説も、
正にヴィトゲンシュタインの哲学が、
「社会という環境」にまで及んできている。

そのことが「実体験」として、
「体験」できるのではないでしょうか。

 

正に今、
現実として実体として、
私のこの「言説としての芸術」であり、
「言語としての造形」が、
私の「芸術家」としての、
「根拠のない使命感」により、
「書いている」と同時に「書かされている」、
のである。

 

 

 

美学者母

 

 

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