No.365

メディアアート、
サイエンスアートの使い方見本市こそ、
まさに工芸的なのである。
(デュシャンは何をしたのか?)

text : mama(美学者母)
2020年3月16日(月曜日
)執筆

 

 

 

あのですね。
僕の文章でいくつかバズってる、
文章があるのですがwww

その中でチームラボ批判をして、
メディアアートやサイエンスアートも合わせて批判して。
しかしあえてライゾマティックの真鍋大度を評価して。
僕のこのコンテクストが理解できていない人が多いので、
改めてこの点について再度詳しく言説していきます。

僕はライゾマティックの真鍋大度を評価している、
その様なことからも理解できる様に、
そもそもメディアアートやサイエンスアートの原理、
つまりアートの原理は否定していないわけです。

僕の考え方というのはアートの原理が重要であって、
その表面性というものはなんでも良い、
というのが僕の考え方です。

なのでそれがテンペラやフレスコでも、
写真や映像でも、
VRやARでも、
なんでも良いわけです。

その上で、
チームラボの猪子寿之はアートの原理を理解していない、
しかしライゾマティックの真鍋大度は、
アートの原理を理解している。
と言っているだけなんですねwww

さらに、
チームラボの猪子寿之は、
ただのテクノロジーの使い方見本市だと、
例えて 言っているわけです。

この様なコンテクストから僕は、
どの様な問題提起をしているかというと、
これはまさに日本における。
「スペック主義」、
この象徴であり表層だと、
そしてこの様な「スペック主義」こそ、
現在の日本の経済の停滞など、
あらゆる問題の根源的な問題である。
その様に考え、
皆様に再考する事を進めているわけです。

私はこの様な「スペック主義」の問題を、
あらゆる分野で散見します。
その象徴的なものが電化製品、
特に最終的に日本の電機産業を消滅に追い込んだ、
「携帯」における日本の敗北です。

私たちは現在当たり前に「スマートフォン」、
を持っています。
日本ではアップルのシェアが大きいと思いますが、
まさにこの携帯の敗北というものは、
日本のスペック主義の敗北そのものなのです。

この携帯の敗北を簡単に説明すると、
日本は「ハード」を大切にしますが、
「ソフト」に関しては全く重要視しません。
これはどの分野に関しても言えることです。

ではこの「ハード」とは何かというと、
携帯で言えばどれだけ小さくできるかとか、
どれだけ機能を増やせるかとか、
どれだけ多く情報を処理できるかとか。
その様なものが「ハード」です。

では「ソフト」というのは何かというと、
携帯で言えばユーザーエクスペリエンス(UX)です。
どれだけ使いやすいかとか、
どれだけ便利になるかとか、
どれだけ役立つかとか。
どれだけ楽しいかとか。
その様なものが「ソフト」です。

つまり「ハード主義」というのは、
「スペック主義(性能主義)」であり、
「ソフト主義」というのは、
「体験主義」なのです。

また誰の視点で考えているのか、
というものでも、
この「ハード主義」と「ソフト主義」は分かれます。

まず「ソフト主義」というのは、
作り手目線では無く、
そのものを享受する人間の視点ですが。
「ハード主義」というのは、
あくまで作り手目線なのです。
作り手が目指す性能というものは、
自己満足の性能に陥りやすい。
そして結果実際に日本の電機業界は壊滅したわけです。

 

私は芸術や美術が専門ですから、
この様な「ハード主義」を、
「工芸」または「工芸的」と言っています。
それは日本の工芸が、
まさに「性能」をひたすら追い求める分野だからです。

さらに本来アート(ART)であるはずの、
日本の美術というものもまた、
工芸や工芸的なものしか評価されないし、
日本人そのものが美術を、
工芸や工芸的な楽しみとしてしか考えていない。
というかその様な文化が自明的であるのです。

これに関しては以前の文章でも述べたのですが。
これらの素地が、
日本の明治期のアート(ART)というものが、
印象派を通して輸入された頃に、
日展や東京藝術大学などを通して出来上がった。

それはアート(ART)という概念では無く、
美術という国家行政として、
美術という日本の制度として、
広まりそれが現在の日本にも続いている。

そしてさらにそれはタイムリーな現象として、
写実絵画のブームがここ10年近く続いているのも、
まさにこれらを原理にした現象なのである。

さらにここから、
写実絵画のブームと同じくして、
メディアアートやサイエンスアートの、
ムーブメントが起こり活況を呈している。

一見「最先端アート」の様に観えるのだが、
これは全く写実絵画のブームと、
なんら変わりのない、
日本の「スペック主義」の表層であり、
それらを原理にした現象なのである。

そもそも私は、
メディアやサイエンスを、
アートに昇華する事は否定していないし。
むしろ私自身がインターネットというものを、
マテリアルにしてアート活動しているのだから、
尚更である。

私はそもそも「スペック主義」を批判しているのである。

まさにチームラボの猪子寿之は「スペック主義」である。
チームラボの猪子寿之は、
メディアやテクノロジーを使った「工芸」なのだ。

これに対してもっと踏み込んでいうならば、
そもそも、
メディアやテクノロジーは「スケール」しなければ、
原理的意味をなくしてしまう。
だからこそ現在のメディアやテクノロジーは、
「ソフト主義」を重視し、
「ユーザーエクスペリエンス(体験主義)」が残り、
前述した様に日本の電機産業は壊滅し、
さらにIT産業でも失敗し、
ARやVR、
さらに人工知能の領域で遅れを取っている。

つまりまとめると、
チームラボの猪子寿之は理系の敗者なのである。
これはまさに明治期に、
アートから排除された工芸と同様である。

その共通点は「スペック主義」であることは、
今この文章を読んでいる人には自明であろう。

原理としてまた現実として、
テクノロジーやメディアの価値とは、
「スケール」する事で、
より多くの人が便利に快適に、
幸せに生活する事を最大化させる為のものなのだ。

それをスペック主義にし、
テクノロジーやメディアを工芸にする事で、
己の欲や見栄、自己満足、自己愛。
その様な事を実現させているに過ぎない。

またその様なものがアート(ART)では無いのである。

 

では皆さんは、
お前が言っているアート(ART)はなんだ。
と言われるでしょう。
私が言っているアート (ART)とは、
具体的なアーティストで言えば、
マルセル・デュシャンです。

私はマルセル・デュシャンは、
アート(ART)において、
工芸性を限りなくゼロに近くした初めての人間であり、
私が最もリスペクトする人間です。

その上で皆さんは、
美学者母はアート(ART)に工芸性は、
全く必要ないと考えているのか。
と言いたくなるでしょうwww

その問題に解答すると、
アート(ART)そのものの成立に、
工芸性は限りなくゼロに近く必要ないと、
考えています。

しかし人間が前提条件のアート(ART)に、
工芸性をゼロには出来ないでしょう。
それはゼロにしたくても出来ないという事です。

 

私は村上隆はとても工芸性にこだわっている。
その様に考えています。
それは実際に何度も作品を観ている人なら、
理解できる事です。
しかし村上隆は、
その日本的な工芸性を追求する事そのもの、
それを日本的な平面性に加えて、
アート(ART)に昇華しているわけです。

 

この様な実例からも、
マルセル・デュシャン、
村上隆、
その様なアーティストから理解できるのは。

アートとは認知の問題であり、
視座であり、
見方であり見え方なのです。

それはある種の神であり、
「信じるから神はいるのだ」
「神がいるから信じるのだ」
という違いと同じなのです。

「神がいるから信じるのだ」という認知は、
まさに「ハード主義」「スペック主義」であり。

「信じるから神はいるのだ」という認知は、
「ソフト主義」「体験主義」なのです。

つまり、
「神がいないのになぜ神を信じるの」、
という「ハード主義」「スペック主義」の人間には。
「信じる事で神がいる」事を体験する、
「ソフト主義」「体験主義」の体験が、
永遠に観えないし理解できないのです。

この様に「ハード主義」と「ソフト主義」では、
物事の見え方が絶対的に違い、
絶望的な次元の違いを産み出します。

結論その「ハード主義」「スペック主義」が、
現在の日本の主流であり、
また日本のあらゆる衰退の原理が、
この事に集約され、
その表層として、
美術において写実絵画のブーム、
チームラボ猪子寿之などによる、
メディアアートやサイエンスアートの、
ムーブメントが起こっているわけです。

この様な日本の、
「ハード主義」「スペック主義」から、
「ソフト主義」「体験主義」へ、
いかにパラダイムシフトできるかが、
今現実的な問題として、
取り組んでいかなければならない。

 

 

 

 

美学者母

 

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