No.353

芸術における古典と現代の指向性は
なぜ産まれるのか?
(上原ひろみのスタンダードと
オリジナルから理解できる芸術の指向性)

text : mama(美学者母)
2019年12月2日(
月曜日)執筆

 

はいっどもっ!!! 美学者母です。
最近は文章を書くのがサボり気味で、
狭山美学校のリノベーションをしたり、
伊勢神宮に行ったり、
上原ひろみのコンサートに行ったり、
小学校の同窓会へ行ったり、
まぁ遊びまくってたといえばそうなるわけですが、
僕的にはフィールドワークをしていたわけですwww

僕も実際コンピューターに向かっている時間、
というのも長かったり、
思考実験など考え込む時間も長くて、
家に引きこもって色々研究しているわけですがwww

僕はフィールドワーク、
つまり実際に行動する事を、
もっとも大事にしています。

行動によって思考ができることもあるし、
思考によって行動ができることもある。
内と外という対極ではあるのですが、
やはりこの対極性というものが、
とても重要だと考えているわけですね。

 

で、今回も、
かなり昔からの私自身の中で問題であったものが、
色々と解決されたので、
そのことを言説していきたいと思います。

まず私の芸術、
特に美術においての指向性は、
現代とか最先端というものを指向しているわけです。

それは私自身では自明なことなのですが、
芸術とはそもそも現代であり最先端である、
それはどの時代でもそうだと考えているし、
むしろ考える前に芸術の定義として自明なのです。

しかし世の中には、
芸術の指向性として古典を指向している人も、
多くいます、
というか日本だと、
芸術とは古典であるという自明性の方が、
圧倒的に多数である事も理解しています。

 

私も古典の美術が理解できないわけではないし、
むしろ一般の方よりも知識はあるし、
その時代背景も知っている。

そして古典もその時代においては、
現代であり最先端であったわけです。
しかしそのような古典美術を、
現代において芸術の自明性として指向する、
それが私には理解できなかったわけです。

 

それが、
先日行った上原ひろみのコンサートと、
理論物理学者の佐治晴夫の言葉で、
かなり明確に理解することができたので、
その辺をさらに詳しく言説していきます。

まず上原ひろみの事でお話しすると、
私が上原ひろみの演奏で芸術体験をするのは、
上原ひろみのオリジナルの曲です。
例えばplace to beとかHazeで、
今回コンサートに行きましたが、
前半がオリジナルで後半がスタンダード。

やはり前半のオリジナルの曲で、
芸術体験が私を襲ってくるわけですね。

しかし後半のスタンダードを聞いていると、
なんというか心にグッとくるものがあります。
それはやはり世界のあらゆる場所、
様々な状況で演奏し、
観客と刹那的な真剣勝負をしてきた、
その即興性を備えたテクニック。
誰もがみとめざるをえない。
しかし圧倒的な孤独を垣間見ます。

それに比べ前半のオリジナルを聞いていると、
後半の観客との真剣勝負という、
観客との勝負ではなく、
上原ひろみとピアノとのまぐわいを、
目の前で観ているような、
本当に美しい体験をするのです。

この様な一人の人間の中での、
二つの対極性は、
先にも述べた、
芸術の指向性の問題とも、
問題を共有しています。

 

その問題の理解を進めるのに、
理論物理学者の佐治晴夫の言葉は、
重要なキーポイントになります。

佐治晴夫はもともとも音楽家を目指していましたが、
音楽の知識や技術が無く、
音楽に感覚的に近しいものとして数学を志します。

この「音楽に感覚的に近いものとしての数学」、
というのは非常に重要で、
佐治晴夫はバッハは数学的に美しいと言われています。

また私自身の知識としても、
古典音楽の作曲に数学が使われていた事も知っています。
佐治晴夫はその後数学から理論物理学へと進まれますが、
この様な言葉から何が理解できるのかというと、
それは数学がそもそも、
「この世界の森羅万象を数学概念で説明しよう」、
という試みであるという事です。

逆説的に言えば、
「この世界の森羅万象が数学であるならば、
数学こそが普遍的言語であり、
数学的美しさこそが、
美の原理である。」
つまり古典を指向する多くの人々というのは、
ある種この様な、
「数学的美しさこそが芸術なのだ」という、
その様な原理に基づいていることが理解できるのです。

これは音楽に限らず美術でも、
例えば黄金比や白銀比などは数学的である。

 

そしてこの様な事から決定的なことが理解できる。

つまり芸術において古典を指向する人々は、
人間において思考可能な、
「概念世界」において「美を追求」する。
という事なのである。

 

しかし私、美学者母は、
現代とか最先端を指向している人間において、
「美を追求」するという行為は、
「概念世界の外側」を「指し示す」という、
行為に他ならないのである。
この「概念世界の外側」を「指し示す」という、
行為については今までの私の言説でも、
度々解説してきたのでここでは解説しないが、
もし知りたい方は私の過去の言説を参照してください。

 

そして最後にまとめ。

ここまで言説してきたことで理解できるのは、
芸術において古典を指向するというのは、
「概念世界の内側に美を追求する」

芸術において現代、
最先端を指向するというのは、
「概念世界の外側に美を追求する」 ということで、

上原ひろみの演奏でいえば、
「オリジナル」は「概念世界の外側」
「スタンダード」は「概念世界の内側」
という事になる。

私が考える「美」というのは、
「概念世界が外側へ広がる」ということ、
または「外側と内側の二重の転倒」、
そこに「美の体験」があると考えている。

 

すなわちこのコンテクストで言えば、
「本質的な美は概念の外側にある」のであって、
「概念の内側にない」のである。

すなわちその様な事から、
私は現代において、

「芸術や美を追求する上で古典を現在において指向しない」

という事である。

 

 

 

美学者母

 

 

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