No.351

アートに真摯に向き合っているアーティストと
クソなアーティストの見分け方
(革新しないアーティストは
そもそもアーティストでは無い)

text : mama(美学者母)
2019年11月14日(
木曜日)執筆

 

そもそもアートに真摯に向き合うとはどういうことか?

それにはそもそもアートとは何か理解していなければ、
そのアート、
すなわち何かに対して真摯に向き合う事さえできない。
それが私がいう「クソなアーティスト」なのである。

僕は通常最先端のアートや、
現代のアートの事をだいたい言説しているわけですが、
日本人は例えば古典美術やルネサンスという、
古い美術が好きなので、
ここでは古い美術の事で言説してみる。

例えばフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の、
ロレンツォ・ギベルティのレリーフの、
北扉と東扉の作品のアートフォーム、
アートスタイルの変化は革新的なものがある。

つまりだ、
その様なアートの革新性というものは、
古典からルネサンス、
そして現代の最先端アートまで、
常にアートにとって自明の事であり、
革新の無いアートなどアートでは無いのである。

日本人はすぐにアートの古典やルネサンスに、
ある種保守的な美術への救いを求めるが、
現代の私たちにとって保守的に見える、
古典やルネサンスも、
しっかりと学ぶとその革新性に驚かされるのである。

 

話を現代に戻すと、
一つのアートフォームやアートスタイルに、
ずっと固執しているアーティストが多くいる。

そればかりか、
古典やルネサンス調の絵画を現在において、
これがアートだという馬鹿もいるわけで、
これぞまさしく頭がお花畑なのである。

つい先ほど、
一つのアートフォームやアートスタイルに、
固執しているアーティストが多くいると、
「固執」という言葉を使ったが、
むしろこういう一つのアートフォームや、
アートスタイルばかりするアーティストというのは、
そもそもアートを感性で創り出すもの、
なんていう日本的アート感により、
それ以外のアートフォームや、
アートスタイルでの表現ができないのであって、
「固執」では無く「無知」なのである。

これはつまり、
知性というものを放棄したアーティストが、
必ず陥る状態で、
それはそもそも、
アートとは何か?ということを、
知性で理解していないので、
自分自身の作品が、
なぜアートとして成立しているのか、
という根本的な問題がわかっていない、
つまり、
自分自身の作品がなぜアートなのか理解、
できていないわけなので、
奇跡的に評価された自分自身の、
アートフォームやアートスタイルを、
変える事ができないのである。

 

その様な状態を如実に現代に現れている、
二人のアーティストが、
村上隆と奈良美智である。

村上隆は知性を使い、
自分自身の作品がなぜアートなのかを理解し、
そしてその言説と共に、
プレゼンテーションしている。

村上隆のアートフォームやアートスタイルは、
初期の頃から現在では大きく変化し、
革新性をどんどんと高めている。

しかし奈良美智は同時期に、
同じ様に世界的に評価されたにも関わらず、
初期のアートフォームやアートスタイルは、
現在でも変わらず、
初期のアートフォームやアートスタイルの中で、
感情表現のブレ程度の変化しかしていない。

これは、
奈良美智が感性で作品を作り、
自分自身の作品がなぜアートなのか、
ということを全く理解していないことに起因する。

 

アートとは知的な操作なのである。
決して感性というもので革新は起こせない、
革新とは知性をとことん突き詰めた、
概念の向こう側であり、
アートというものに真摯に向き合い、
究極までアートというものを考え、
知的に探求し、
それでも理解し得ない、
概念の向こう側である、
事象の地平の向こう側、
それを思考し得た人間にだけ、
少しのヒントが塵のごとくかすかに、
認知させてくれる。

 

つまり「クソなアーティスト」とは、
知的な探求もろくにしないで、
アートは感性だぁ〜なんて、
夢想して、
同じアートフォーム、
アートスタイルしかできない奴。

これがまさに、

アートに真摯に、
向き合っているアーティストと、
クソなアーティストの見分け方なのである。

 

 

 

 

美学者母

 

 

美学者母のスポンサー、サポーターになるにはこちら↓
クラウドファンディングでスポンサー、サポーターになろう↓