No.346

そもそもアーティストなんて
アウトローな存在なのに、
憲法や法律で保護してもらおうってのが
キモチワルイ。
(アーティストとは国家以前性の存在である)

text : mama(美学者母)
2019年9月29日(
日曜日)執筆

 

今「表現の自由」だ!!!
とか言ってる人とか、
アーティストでかなりの数の人が、
ドヤ顔で言ってるのですがwww

 

その人達ってそもそも、
「アーティスト」の資質がないんじゃないだろうか。

 

僕が本当に「キモチワルイ」なぁって、
感じるのは、
なんで「アーティスト」は、
「国家」というものを「前提」に、
「存在」していると思い込んでいるのだろうか?

そもそも自ら「国家という定義」に、
「定義」づけられようとしていて、
「表現の自由」というもの自体も、
「国家」における理念や意志なわけだ。

僕の目から見ると、
「表現の自由」だ!!!! って言ってる人ほど、
本当に「自由」を獲得したいのか?
と疑問に感じてしまうのねwww

だって「自由」って叫んでる割には、
「国家」というものに囚われてるわけじゃない?
僕からすると本当に意味不明なんだわwww

そもそも「アート」とか「表現」が、
「国家」ってものを前提に定義されるのか?
って事ね。

「アート」とか「表現」ってのは、
「人間」の「原理的欲動」であって、
それは「国家」というものが、
前提ではないわけです。

そしてアーティストというのは、
「自らの欲動」を「表現」するわけですが、
その欲動というのは、
その時代その時代のルールから、
つまり「憲法」や「法律」から逸脱するのも、
ある意味仕方のない事であり、
それがある種の「アート」としての、
役割でもあるのです。

つまりアーティストが、
「法を犯す」というのは、
「表現者」「創造者」として自明であり、
それを「恐る」事自体が、
アーティストとして失格であると、
僕は考えています。

 

それはつまり、
「アート」や「表現」が、
「国家以前性」のものであるからであり、
「国家」というものを「前提」に、
存在するものではないからです。

その様な事から理解できるのは、
そもそも「アーティスト」というのは、
一般社会からすれば、
「アウトロー」な存在であるはずなのであり、
その「国」の「憲法」や「法律」に、
守られようとする事自体が、
「アーティスト」として「ナンセンス」、
である事が理解できると思います。

 

私はそもそも、
この「国家」において、
「犯罪者」になることを全く恐れていませんし、
実際に「その様な行為」も行ってきました、
それが「善いとか悪い」では無く、
それは「アート」や「表現」が、
「国家以前性」のものであり、
それが「アート」や「表現」というものであるのです。

 

現在の日本のアートというのが、
「国家」を前提にし、
「国家」に守られ、
「国家」を「権威の担保」としている限り、
日本の「アート」は発展しないのでしょう。

例えばこんな話もあります。
外国から来た知識人が、
どうして日本はこんなに「落書き」が少ないんだ、
日本の若者たちは一体何をしてるんだ?

この事は何を表しているのでしょうか?

 

この様な「表現の自由」という、
非常にコンサバティブな事自体が問題になる、
日本のアートというのは、
実は非常に「遅れている」わけです。

それはある種「国家主義」的な考えが、
自明性を持ち、
あらゆるものが、
「国家」を前提にされている。

そもそも「国家」を前提にした「アート」、
それ自身が「権威主義」であり、
まさに「あいちトリエンナーレ2019」で、
問題になっている「表現の自由」の問題は、
「国家の政治」であり、
「権威の覇権」であり、
「ヘモゲニー」の争いであるわけです。

国家を前提にした「アート」は、
そもそも「政治」であることは、
「自明」であるのです。

 

そもそも「アウトロー」である、
「アート」が、
「国家主義」的「体制」に取り込まれている、
それに反してテクノロジーやサイエンスが、
「アート」が担ってきた、
その様な役割を担ってきているのが現在です。

テクノロジーやサイエンスでは、
テクノロジーやサイエンスの進歩や、
インターネットの普及で、
国家という前提が無い世界が、
大きく広がっています。

そこから創造されたものは、
憲法や法律を犯しているものも多くあり、
それに合わせて、
ルールが変わる事も多く見られます。

 

例えば日本では、
Winnyを作った金子勇などは、
警察に逮捕、起訴されたが、
最高裁が検察側の上告を棄却し、
無罪になった。

ではそもそもWinnyは、
国家を前提にして生み出されたものだろうか?
いやもっと言うと、
そもそも国家を前提にして、
そんなものは創造しえなかったであろう。

 

そこから何が理解できるのか、
私たちは「国家」というものを「前提」に、
する事で、
ある種の「クリエイティビティ」を奪われるのである。

それは、
「国家を前提にしない」という事で、
初めて産まれてくる「創造性」があるからなのだ。

それがまさに、
テクノロジーやサイエンスで起こっている、
「イノベーション」なのである。

 

つまりこの様な事から、
「あいちトリエンナーレ2019」での、
「表現の自由」の問題がクリアになってくる。

それは現在の「日本のアート」は、
インターネット以前の価値観、
つまり「国家を前提」としたもので、
「アート」を考えているという事である。

つまりそれは、
「体制」と「反体制」という対立軸があり、
「政治」が発生し、
「権威」を信仰し、
「スローガン」で動員する。

なんとも古めかしいものである。

 

インターネットが普及して20年、
私が「ウェブアート宣言」を発表して10年、

 

あと何年日本のアートが変わるのに必要だろうか?

 

 

 

 

美学者母

 

 

 

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