No.342

裏社会、表社会を見尽くしてきた僕が、
美学者として40歳で行き着いた
本当の評価のあり方。
(評価経済社会を生き抜く作法)

text : mama(美学者母)
2019年9月4日(水曜日
)執筆

 

どうもぉ〜!!!
夏を満喫しすぎて、
夏休みの子供みたいに真っ黒になってる、
美学者母ですwww

まず僕自身の人生の生き方というのは、
まさに「その日暮らし」ですwww
この刹那をいかに楽しく、幸福で、
満たされて過ごすのか、
とにかくそれが一番です。

 

それはただ単に欲望に流される、
という作法ではなく、
「美的判断による芸術体験」という、
理性的で知的な作法によって、
獲得できる刹那的体験であり、
それがまさに、
楽しさや幸福であるわけです。

そしてそれらを実現させるものが、
「美的判断」であり、
それを社会的言語を使えば、
「評価」という言語になるでしょう。

つまり、
己にとっての「評価」というものが、
己にとっての「豊かさ」と直結する、
そういうことになるわけです。

まず「評価」という概念を、
「定義」させる場所を、
小さく見積もらない事です。

それは、
サラリーマンなら「会社」とか、
アーティストなら「アート界」とか、
経営者なら「資本主義」とかです。

世界という設定は、
あくまでバリアフリーに、
そしてダイバーシティに、
定義しなければなりません。

 

それは究極、
「自分なりの秩序」といっていいと思います。

 

社会というのは、
憲法や法律以外にも、
暗黙に共通認識として設定されたルール、
それは常識とか倫理として、
法を犯していないまでも、
社会の一員として守って当然のルール、
その様なものがあります。

しかし「自分なりの秩序」というのは、
法や常識、倫理など関係なく、
己によっての「美的判断」、
つまり「評価」に従うという事です。

 

それは、
己によっての「美的判断」、
つまり「己の評価基準」が「世界」であり、
「世界」が「己の評価基準」である、
そういう前提条件こそが、
もっとも重要だという事です。

 

 

まず今まで述べてきたことを前提条件に、
僕はアートが専門なので、
アートというものをメインで話すわけですが、
現在の日本のアート界というのは、
まさに「弱者利権の巣窟」なわけです。

頭のいい方なら理解が早いと思いますが、
今まで私が述べてきた事と、
真逆のものが「日本のアート界」なわけです。

 

今ままでの日本のアートというものは、
いかに「弱々しいか」という事が重要です。

人間の本質的な「弱さ」を極限まで追求し、
ある意味それは「社会的弱者」として、
実際の社会に「表層」していたわけです。

ですからある種、
日本のアートの扱いは、
「文化事業」という名の、
「福祉事業」と化しているのです。

 

この様な「弱者精神」が、
日本のアーティストに染み付いているからこそ、
基本的に日本のアートというのは、
行政からのお金をあてにしているものが、
ほとんどなわけで、
いかにその年度に割り振られた予算の甘い蜜を、
つまり「税金」というものを、
「文化事業」という名の「福祉事業」で、
国家や地方自治体から、
「弱者救済」を施されているわけです。

 

この様な「弱者利権」の特徴は、
例えば「被差別部落」などの問題とも、
リンクしてくるわけですが、
「差別」という言葉一つで、
彼らは「行政」に脅しをかけて、
「弱者利権」を守ろうとし、
また莫大な税金が投入されるわけです。

また職業差別などの理由から、
大阪市環境局の現業職などには、
大量に公務員として、
それらの人達が働いています。

 

それらと手を斬ろうしたのが、
前大阪市長の橋下市長です。

 

 

これって日本のアートの構造に、
今問題になっている、
「あいちトリエンナーレ2019」と、
似てる所ないですかね?
「差別」のところを「表現の自由」、
に置き換えて考えると、
非常によく似た構図ですね。

 

この様に「弱者利権」というのは、
「差別」とか「表現の自由」とか、
アンタッチャブルな事を、
どんどん「利益」にしていくんですね。

 

それで僕はですね、
この様なコンテクストの上で、
もう日本の「弱者としてのアート」、
というものがほぼ100パーセントの、
日本のアートに、
もっと「強者としてのアート」、
というものが必要だと考えているわけです。

では「強者としてのアート」とは何か? というと、
それはもちろん世界をみれば、
「資本主義社会」でパワフルに資本をかき集めてる、
それも「強者としてのアート」だと考えるわけですが、
日本ではなかなか難しい。

 

では僕が考える「強者としてのアート」は、
それは冒頭に述べた言説にあるわけです。

本来アーティストって、
知性だけでなくあらゆる能力が必要だと、
僕は思っているわけですね。

つまりアーティストというのは、
例えば日本の小さなアート界で、
おさまるはずのない人間なはずなんです。

その根拠は、
「美的判断」、
つまり物事に対する正しい評価、
それができる人間だという事なのです。

その「美的判断」は、
サイエンス、テクノロジー、ビジネス、
エンターテイメント、デザイン、サービス。

 

あらゆる分野でトップレベルで活躍できる、
スキルなはずなんですよね。

 

それで最後にまとめですが、
アーティストはいい加減、
「弱者利権」にへばりつくのは、
やめた方がいいし、
それは非常に醜いです。

 

そして現在訪れている評価経済社会は、
アーティストが「強者」として、
活躍できる「場所」であるという事。

 

日本のアートも、
「弱々しいアート」から、
「強者としてのアート」へ、
変わるべき時だと考えています。

 

 

 

 

 

美学者母

 

 

 

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