No.336

愛知県の大村知事は間違っている。
あいちトリエンナーレでの
公共での表現の自由について。
(もう一度公共について再考しよう、
表現の自由は公共では限定される。)

text : mama(美学者母)
2019年8月6日(火曜日
)執筆

 

どうもぉ〜!!!
いやいや盛り上がってますねぇ、
「あいちトリエンナーレ2019」、
違う意味でですが、
しかし改めて色々と考え直す機会になって、
ある意味良かったのではないでしょうか、

「表現の自由」とか「公共性」について。

 

あの先ほど愛知県の大村知事の会見を見て、
公共性の考え方がおかしい、
というか私と全く真逆の事言ってるんですね。

これって日本人の「公共」に対する誤解の、
ある意味象徴だと思います。

過去にも「公共」の意味について、
解説した文章がありますので、
リンクを貼っておきます。

 

「なぜ日本人はアートを感じようとするのか」

https://www.machromatic.net/column_0070.html

 

「多様性と公共性の違い」

https://www.machromatic.net/column_0095.html

 

 

「公共」という概念の詳細は、
リンクに記載されている言説で詳しく説明していますが、
つまり一般的な日本人が考える「公共」ってのは、
本来の「公共」という概念の視座が違うんだな。

しかし重なるところもあるから、
「公共」という概念が日本の中で誤認されてきている。

そしてそれが今回の、
「公共での表現の自由」の問題につながるわけ。

まず「公共」について簡単に説明したいけど、
詳しく理解したい人はリンクの文章を読んでね!!!

 

日本人の考える「公共」とは、
「家」の延長だって言われているわけです。

「つまり自分がされて嫌な事はやるな」です。

例えば家で立ち小便されたら嫌でしょ?
だから道とか街で立ち小便するなって、
それがいわば日本の「公共性」なわけです。

 

これは少し難しく言うと、
「他者認識」と「自己認識」が一致している、
というのが前提で、
まさに日本ってのは、
多民族多人種の国じゃないから、
そういう「偽の公共」、
つまり、
「他者認識」と「自己認識」の一致をベースにした、
「公共性」が「公共」と混同されるわけです。

そして本来の「公共」というのは、
「自己認識」と「他者認識」が一致しない、
その様な前提にあるのが「公共」なわけです。

それは、
多民族多人種の国、
つまり「多様な価値観」「多様な思想」、
それを前提にし、
ある一定の「ルール」を設定し、
「最低限」それを「守る」、
それが「公共性」なわけです。

 

だから「人格」、
つまり「個人」では許されることも、
「公共」では「ある一定のルール」を、
守りましょう!!!! ってのが公共で、

それは例えば「啓蒙主義」などから始まる、
「近代」において、
「個人」の「尊厳」というものが、
非常に重要になった事で、
「個人の自由」を担保するために、
「公共」すなわち、
多種多様な価値観が交差する、
または交わる場所では「公共性」を、
優先させましょうねって話で、
それ以外は、
「人格」、 つまり「個人の自由」を担保しよう、
そういった考えであるわけです。

つまり「公共」というのは、
「個人」というものと一対な訳で、

 

「個人の自由」:「公共」

 

というわけです。

簡単な例え話、
多種多様な価値観や思想があって、
それぞれがそれぞれの、
正義や悪を持っていたら、
それこそ揉め事になって、
収集がつかなくなってしまいます。

しかし日本では、
日本人同士がある程度価値共有しているために、
本当の意味での「公共性」の意義を、
実感できないわけです。

まず「公共」というものが、
この様なベースにあるという事から、
今回の「あいちトリエンナーレ2019」の、
「表現の自由」を考えていかなければなりません。

 

つまりこのコンテクストから考えると、
「公共性」のあるものには、
ある一定のルールが適用される、
それが理解できるわけです。

愛知県の大村知事は、
「公共」だからこそ「表現の自由」が、
担保されるべきで、
「民間」だったら「表現の自由」は担保できない、
というわけのわからんことを言っておりました。

皆様もお気づきだと思いますが、
私の言っている事と真逆なわけです。

 

これは日本人的と言いますか、
日本人は「個人」よりも「組織」優先、
「個人」よりも「会社」、
「個人」よりも「国家」、
つまり「個人」が抹消されていて、
主体はあくまで「国家」であるという、
その様な考え方です。

その「主体」の在りどころが、
この「公共」の考え方にも顕著に現れています。

 

例えばなぜアメリカは「銃社会」を、
なぜ辞めることができないのか?
という問題とも繋がります。

それはアメリカ人にとって「銃」は、
アメリカ人としてのアイデンティティなのです。

それは「主体」が「個人」にあり、
いつでも「連邦政府」に、
「銃」で戦うのだ、
という「個人主体」の「表層」なのです。

 

つまり人間は、
「国家」からも「組織」からも、
誰からも「自由」であり、
己が「主体」である。

その様な、 「個人」としての「主体性」、
「人間」としての「人格」、
「人格」としての「人権」、
「個」としての「人」を考えた上で、
「公共」というものが浮かび上がってきます。

 

ですから「表現の自由」というのは、
この「個」としての「人」に依存している、
つまりアメリカで言えば、
「銃を持つ」というのは、
「個」としての「人」の、
「表現の自由」なわけです。

しかし、
アメリカでも街中で、
ぷらぷら「銃」を持って歩く事は、
「公共性」に反します。

つまり「公共性」とは、
多種多様な価値観、
ダイバーシティにおける、
一定のルールなわけです。

 

今回の騒動、
「あいちトリエンナーレ2019」 で展示された一部の作品は、
言わば公共の場で銃を振り回して、
これは「表現の自由」だと、
言ってるのと同じなのです。

 

この様に、
「個」の「人」としての、
「表現の自由」を、
「公共」という、
多種多様な価値観が交わり、
一定のルールを共有すべき場所で、
「表現の自由」を主張するという、
頓珍漢な事態になっているのです。

 

ここで問題になるのが、
「個人としての表現の自由」と、
「公共としての表現の自由」の混同です。

アメリカの銃の話で言えば、
「個人としての表現の自由」は担保されています。

「公共としての表現の自由」は担保されていません。

 

なぜなら公共には一定のルールがあり、
「表現の自由は制限」されます。

そしてその制限を検閲と言う人もいますが、
もしそれが嫌なら、
「個人としての表現の自由」が担保されていますから、
「個」の「人」として、
「表現の自由」を「獲得」すればいいのです。

 

そもそも「表現の自由」とは、
「個」の「人」に与えられた「権利」です。

それはアメリカ人が「銃」を持つのと同じで、
今回問題になった作品作家は、
どこかで場所を借りて展示すればいいのです。

その展示が強制的に撤去されるなら、
初めて「表現の自由の侵害」と言えるでしょう。

 

 

 

 

 

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