No.324

心理カウンセリング(心屋仁之助)とか
自己啓発とか、各種セミナーでの
トートロジーの悪用と洗脳の関係について
(P またはPではない)

text : mama(美学者母)
2019年5月21日(火曜日
)執筆

 

 

最近YouTubeを観ていて、
たまたまある動画が目についた。

心屋仁之助という方の動画で、
「一問一答」という「公開カウンセリング」??
私の知ってる方で、
この心屋に心酔されている方がおられるので、
その名前は知っていたのだが、
一度位話を聞いてみるのも面白いなと、
動画を我慢してみてみたのですが、
感想はまぁこういうのに皆んな、
ハマッてしまうのよねぇ〜って感じwww

 

まず心屋に限らず、
例えば投資のセミナーでも、
自己啓発のセミナーでも、
だいたい同じ構造になってるわけです。

それが「トートロジー」で、
例えば、

「Pまたは(Pではない)」

この文はいわゆる、
「トートロジー」になっている文なんです。
それはどういう事かというと、
Pが真であるとすると、
Pではないという偽、
それを両方含んでいる文である、
それは真偽を両方含んでいる、
それは「論理学」では、
ナンセンスであり、
論理では無いとなるわけです。

何故ならば、
その文は全てを言ってしまって、
真か偽を言えていない、
論理において、
真である事(有意味)、
偽である事(有意味)、
真偽全てである事(無意味)、
つまりトートロジーは、
ナンセンスであり無意味であるのです。

この様なトートロジーを使った、
無意味な論法はあらゆる所で使われており、
政治家の答弁、占い師の占いなど、
無意味な論法に納得している人々が多数います。

例えば総理大臣の安倍晋三、
占術家の細木数子、
霊能者の宜保愛子、
などはトートロジーを多用しています。

 

例えば皆さんは反論のできない論理、
というものをどう考えるでしょうか?
論理的に完璧で、
論理を壊すことができない論理です。

それは「凄い!!!」となるでしょうか?

 

しかし、
そもそもそれは「論理」としておかしいのです。
例えば科学ではそれを「反証可能性」と言いますが、
論理とは常に反論される余地がある、
それこそが論理であり、
論理に反論する余地がないものは、
そもそも「論理」ではないのです。

つまり「トートロジー」とは、
真偽を両方含んでいるために、
「反論」する余地がないもの、
ということなのです。

私たちは、
この様な「トートロジー」に、
ある種「神秘性」を抱きます。

言語に隠されたトートロジーが、
それを発言した人間に、
ある種の「全知全能」を投影してしまうのです。

その意味でトートロジーは、
人間を惑わす、
さらに洗脳する方法論として、
非常に有効であり、
逆説的に非常に危険であると言えます。

実例として、
例えば占術家の細木数子が多用していた言葉、
「あなた地獄へ落ちるわよ!!!でも助かります!!!」
これは完全に「真偽」を含んだ、
トートロジーになっているわけです。

「地獄へ落ちる」という真と、
助かるという、
「地獄へ落ちない」という偽が、
一つの文の中に含まれています。

次に私が冒頭に話した、
心屋仁之助の公開カウンセリングでのトートロジー、
というかこの様な界隈のトートロジーは、
全てこの様な構造を持っていると思います。

「過去の自分」→「今の自分」→「変化した自分」

ロジックやスキームはこうです。
自分がいる(お金に困っている)
変化した自分(お金に困っていない)
自分も変化した自分も自分である ↓

「自分または(自分ではない)」(トートロジー)

ここでいう(自分ではない)は、
変化した自分になります。

そして最終的に心屋仁之助はこう言います。

 

「何もしなくていい」

 

つまり、
「P「何かしても」または(P「何かしなくても」)」
「貴方」である。
「Pまたは(Pではない)」となり、
トートロジーとなるわけです。

ご覧の通りトートロジーは無意味であり、
ナンセンスで何も言えていない事に気づきます。
しかし人間はこの言語のレトリックを通して、
その発言した人間に、
「全知全能」を抱くわけです。

 

この様な状態は仏教的に、
空観、中観、仮観、
この中から読み取れます。

このトートロジーの状態は、
空観の状態を借用した状態であり、
人間にとっては「無意味」な状態です。

 

例えばある菩薩は悟りを得るために、
山奥の洞窟の中で何十年も座禅をし、
何百年も経ってから、
座禅をしたままの白骨化した遺体が、
洞窟の中で発見された、
その様な事があったわけですが、
これは人間として、
「有意味」でしょうか「無意味」でしょうか?
私は人間として「無意味」であると確信します。

人間らしさとは「有意味」にあるのではないでしょうか、
またその「有意味」だけに真理を求めるのも危険ですが、
それを仏教では仮観というわけですが、
「中観」すなわち、
「有意味」も「無意味」も並列的に思考する。

それが人間としての真理だと考えています。

つまり人間は思考をベースとした「論理」によって、
人間らしさを獲得しているのであって、
「論理」ではない「トートロジー」は、
人間にとって「無意味」なのです。

しかし人間は、
その「論理」ではない「トートロジー」という、
ある種言語的幻想によって、
それを発言した人間に「全知全能」を観るのです。

 

今回たまたま、
YouTubeで心屋仁之助の動画を観て、
典型的なトートロジーを話していたので、
人間はトートロジーに盲目だなぁ〜と、
改めて思った次第です。

 

一度このトートロジーについて、
皆さまも考えてみてはどうでしょうか。

 

 

 

美学者母

 

 

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