No.308

会田誠のセクハラ問題で私は
会田誠を完全に擁護する
(美しさと醜さの間で)

text : mama(美学者母)
2019年2月28日(木曜日
)執筆

 

えっと、
先日から会田誠さんの、
セクハラ問題で色々騒がしいのですが、
私もニュースで断片的にしか認識していませんが、
そのニュースで報道されている事、
後は会田誠さんのツイッターの情報なども合わせて、
私なりの見解を述べさせていただきます。

 

まずアートとは何なのか?
という事が大きな意味を持つと考えています。

そしてアートとは、
「美」というものを追求しているとすると、
それを「美学」と称する事ができます。

私の定義している「美」とは、

 

「美」とは「愛」であり 「愛」とは「人」である

 

この様に定義しています。 つまり「美」とは「人」そのものである。

さらに「人が人である」ということ、
それは「心」があるという事です。

この様なことから、
「アート」は「心の営み」であると解釈しています。

そして「アート」が「心の営み」である以上、
「概念世界」の営みであるわけです。

その様なことからも、
それは絶対的に二極化するわけです。

「美しい」と「醜い」、
「綺麗」と「汚い」、
「光」と「陰」、
まずこれらが自明であることを認識する事が、
大変重要です。

つまり「絶対美」というものは存在しません。

「人」は、
この二極のちょうど真ん中あたりを、
揺らめく事で、
「美」を感じたり、
「醜さ」を感じたりするわけです。

 

私は以前の言説でも述べていますが、
「アート」とは「諸刃の剣」であり、
同時に、
それを体験してしまえば、
体験していなかった自分には戻れないという、
非常にセンシティブなものなわけです。

 

もっと簡単に説明しましょう。
貴方は貴方の心の中で、
「不道徳」なことや、
「法律に違反」すること、
「迷惑」になることや、
「悪い」ことを、
空想したり妄想したり、
頭をよぎる事がありませんか?

そもそも「人」であれば、
常に「道徳的」で、
常に「善」だけを考えている、
考える事なんて出来ないわけです。

例えば一番単純な不敬な行為として、
SEXや性行為などがありますが、
それもまた、
普段の抑制があるからこそ、
興奮というメカニズムが働くわけです。

ですので、
常に人には、
善悪という二極が同時に存在する、
アンチノミーな存在であり、
もっと追求すれば、 「
生と死」の間が「生きる」という事なのです。

 

ある種「絶対美」というものを、
「古典美術」などは追求してきたわけですが、
「現代美術」はその人間が内包する矛盾を受け入れ、
それらをアイロニーに表現するという事が、
芸術構造として存在しています。

 

「美しさ」とは何でしょうか?
「醜さ」とは何でしょうか?
そもそもそんなものが存在するのでしょうか?

 

元々私は会田誠さんを批判的に捉え、
「独立性」という意味で批判する文章も書きました。

しかし今回会田誠さんなど学校側は、
作品の画像などを見せたのでしょうが、
芸術を志す人間の素養として、
セクハラだと訴えている人間が、
それを咀嚼できる知性が無いという事が、
そもそもの問題だと感じたわけです。

この訴えた方は、
美術モデルをしていると報道がありました、
それならばこの人が現場で、
この美術モデルは醜いからセクハラだ、
描きたくないものを描かされた、
とこの女性が訴えられている様なもので、
非常に幼稚な論争なわけです。

この女性の訴えが通るなら、
究極的に私たちが、
「不敬な事を妄想する事」それすらも、
許されない世の中になってしまいますし、
そもそもこの訴えた人間の中にも、
「美しさ」もあれば「醜さ」もあり、
その己の「醜さ」に向き合えないからこそ、
この様な訴えを起こしたのだと考えています。

 

最後に、
現代における「アート」は
、 非常に知性や教養を求められています。

 

今後「アート」を志す人々は、
是非とも知性や教養を、
意識的に高めていく必要があります。

 

 

 

 

美学者母

 

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