No.299

知性は天使か悪魔か
(知るということから逃れ続ける人々)

text : mama(美学者母)
2018年12月2日(日曜日
)執筆

 

私の事を頭がいいと思っている人、
それは大きな間違いなのです。

私は頭が悪いから、
「もっと知りたい」という欲求が、
他人よりもかなり強いわけです。

私は他人によく「バカ」とか「アホ」、
なんて事を言いますが、
それは頭が悪いという意味ではなくて、
「もっと知りたい」という姿勢が無い、
その事を「バカ」とか「アホ」というわけです。

 

まぁそもそも私は高校しか卒業していなくて、
さらに高校までは、
「野球」に全てのエネルギーを注いでいて、
本当に授業というものは、
全て「寝ていた」わけで、
「学ぶ」という事を始めたのが、
高校を卒業してからなのです。

そのような点からも、
一般的な人々が「勉強」してきた、
例えば大学、大学院、
学歴が高く頭がいいという常識から言うと、
私は低学歴で頭が悪いのは自明なのです。

 

しかし大抵の人は、
「大学」や「大学院」を卒業すれば、
急に勉強しなくなるわけです。

それを考えると、
私は18歳から20年以上学び続けているので、
その辺の「大学」や「大学院」を卒業している人、
それよりも「知性」はあると実感しています。

 

一般の人は、
「大学」や「大学院」を卒業すると、
「知る事」を「停止」するわけですが、
ではなぜ知る事を「停止」するのか、
それは社会というものが、
ある一定の「ゲシュタルト」であるからです。

そもそも「社会に適応」するというのは、
そのある一定の「ゲシュタルト」に、
「適応」するという事ですから、
普通一般的に、
「大学」や「大学院」というのは、
その適応する為の方法を教えているわけです。

逆に私が「学ぶ」という事を始めたのは、
高校を卒業してからの18歳からですし、
そもそも「社会に適応」する「勉強」を、
それまでしてこなかった、
その上18歳から「学ぶ事」を始めた私は、
自分が「知りたい」と思う事を、
深く学んでいったわけです。

 

私は高校を卒業して、
東証一部上場の日新製鋼という、
大手製鉄メーカーへ就職しました。

そうやって社会へ 飛び込んでいったわけですが、
私の目には色々な事が疑問に思えたわけです、
大卒と高卒ではそもそも賃金テーブルが違う、
高卒の昇進は係長で最高、
当然退職金も違う、
何もかも大卒と高卒では違う、
もう私は18歳で入社して、
一ヶ月後には定年退職している自分を、
鮮明にイメージできていたんですねwww

そして入社して五ヶ月後に辞めましたが、
周りの全ての人々に反対されました、
大きな会社で一生困らないのに、
なんで辞めるんだって、
その会社の人に言われて今だに覚えている言葉が、
「うちの会社を辞めたらうちよりいい会社に絶対入れない」、
「一生後悔するぞ!!!」、
その言葉がやたら腹がたったので、
その後にお前所よりいい会社に入ったるは、
って事で、
その時の経団連会長が住友化学の会長だった時代に、
住友化学に正社員で入りましたwww

 

そんな感じで社会で過ごしていたわけですが、
そもそも会社ってなんなの?
そもそも学歴ってなんなの?
そもそも経済ってなんなの?
そんな風にあらゆる事が疑問で、
そして全て学んで、
自分なりの答えを出していったんですね。

そうやっていくうちに、
「知る事」を究極的に突き詰めていくことになります。

そもそも知る事とはなんなのか、
そもそも私とはなんなのか、
そもそも世界とはなんなのか、
そもそも科学とはなんなのか、
そもそも意味とはなんなのか、
そうしているうちに、
ある時私は「知性」を獲得していることに気づきました。

 

それはある種、
「知ってはいけない事を知ってしまった」 その様な感覚です。

それは前述した、
「社会」という「ある一定のゲシュタルト」、
それがあくまでも「ある一定のゲシュタルト」であり、
その「ゲシュタルト」は、
「一つのゲシュタルトに過ぎない」という事を、
「知って」しまったわけです。

この様に「知性」を手に入れた私は、
その後この様な、
「知ってはいけない事を知ってしまった」、
その様な感覚を何度も体験します。

それはある種今考えますと、
「芸術体験」と同様の体験だと考えています。

 

これを簡単に言いますと、
「体験してしまったら、 体験していなかった自分には戻れない」、
または、
「知ってしまったら、  知らなかった自分には戻れない」、
この事は、
「人間の絶対的不可逆性」や、
「人間の刹那的存在性」、
これらを根本的に再認識する体験です。

 

そして私は、
「知性の真髄」はここにあるのだと考えています。

そしてこの「知性の真髄」こそ、
「天使」でもあり「悪魔」でもあるのです。

 

つまり、
「社会という一定のゲシュタルト」、
それだけが「世界ではないと」、
「知らない人々」にとっては、
それは「悪魔」ではあるのですが、
「社会という一定のゲシュタルト」、
それだけが「世界ではないと」、
「知っている人々」にとっては、
それは「天使」であるのです。

そして、
その「社会という一定のゲシュタルト」、
それだけが「世界ではないと」、
「知らない人々」にとって、
それを「知る事」というのは、
つまり「悪魔」を知る事なのです。

 

そしてその「悪魔」は、
「知ってしまったら、 知らなかった自分には戻れない」のです、
これこそが、
「知性」というものの、
「天使」と「悪魔」の「二重性」なのです。

 

そして現在、
「知性」というものが、
求められない時代になってきています。

それはまさに、
「現在」というものを、
「変更」せずとも、
「満足」しているとも言えます。
この様な事からも、
「現在」において、
「現状に満足するリスク」よりも、
「知性を得るリスク」の方が、
大きなリスクになっているのだと考えています。

 

つまりその様な事から、
「知るということから逃れ続ける人々」が、
新たに生まれ続けています。

 

しかし人間にとって、
「知る欲求」というのは絶対になくなりません。
むしろ私たちは、
「一定のゲシュタルトの外」を知ろうとしますし、
それが「知性」だと言えるわけですが。

現在は、
「一定のゲシュタルトの内」を知ろうとする時代です。

それはある意味「実益を求める時代」であり、
「表面性の時代」であるのです。

この様に「実益」が「美徳の時代」に、
「知性」はもちろんのこと、
私が専門の「芸術」というものも、
どう考えていくべきなのか、

今後もっと深く考えていきたいと思います。

 

 

 

 

 

美学者母

 

 

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