No.286

ありがとう、素晴らしい、良かった。
あなたが本当にもらうべき言葉。
(本当に貴方を思えば私は貴方を批判するだろう)

text : mama(美学者母)
2018年9月16日(日曜日
)執筆

 

今日もまた、
私の目の前を、
「ありがとう」、
「素晴らしい」、
「良かった」、
というなんの気持ちもない言葉が、
軽快に、当たり障りなく、
過ぎ去っていくのである。

私はアート活動をしているので
、 例えばフェイスブックなどでは、
芸術や文化などの情報が多く流れてくる。

しかしそこで行われているコミュニケーションは、
「ありがとう」、
「素晴らしい」、
「良かった」、
定型文で十分な言葉で、
埋め尽くされている。

身内や知り合いの中で、
当たり障りない褒め言葉をやりとりし、
やりとりにはなんの意味もない、
ただ単なる社交辞令を繰り返している。

貴方にとって本当に必要な言葉とは、
一体なんだろうか???

この世界というのは、
そもそもそんな甘っちょろい所なのか???

 

まぁよくよく考えてみると、
身内で当たり障りのない褒め言葉に、
違和感を抱かない人間は、
その程度の人間なのだろうがだ。

常にアップグレードしようとしている人間にとって、
賞賛の声ほど無意味なものはないのである。

それはただ単に、
脳の快楽物質を一時感じる位で、
それは「気持ちいい」のかもしれないがだ。

どの世界でもそうなのだが、
「批判」の言葉こそ、
常にアップグレードを試みる人間にとって、
「意味」を持つものはない。

 

「批判」され、
「反省」し、
それを「フィードバック」して、
「工夫」し、
「改善」する。

この様なフィードバックループを繰り返し、
アップグレードのベースとするわけです。

 

日本っていうのは、
特に芸術に対しての、
「批判的精神」というものが無い。

「芸術」というだけで、
「批判」することが「タブー」になっている。

「良い」ことだけ言って、
「悪い」ことは言わない。

それはアイデンティティを傷つけるから?
むしろ芸術家にとって、
「批判」されない方が、
危機的な状態だと考える。

 

日本では通常芸術において議論が起こらない、
それは「批判」が無いからだ。

むしろ世俗的に倫理観を逸脱したものには、
異常なまでの誹謗中傷が巻き起こる。

私は日本でも常日頃から、
芸術に対しての議論が、
高レベルな領域においてなされるべきであるし、
それを促進していきたい。

 

直近でもヤノベケンジの、
《サン・チャイルド》という作品が、
問題になったが、
世俗的な低レベルな議論を受け入れた、
ヤノベケンジにも疑問を感じる。

日本人はそもそも、
常日頃から芸術の批判的議論さえしないのに、
少しの倫理的問題を炎上させて追放する。

それに負けたヤノベケンジが 芸術家として一番問題である。

もしかすると、
私たち日本人は、
「批判」されることに、
全く耐性を保持していないのかもしれない。

 

それは日本人は「芸術」を、
「芸術」と聞いただけで、
それは「素晴らしい」のだ、
という思い込み、
というか「洗脳」されているからだ。

日本人にとって、
「芸術=神」なのかもしれない、
「触らぬ神に祟りなし」なのだ。

これは日本文化と言っても過言ではないが、
「芸術」を「批判」する、あるいは「議論」する、
ということは、
ある意味、
「神」を「批判」する、あるいは「議論」する、
のと同じ様に、 不敬なことなのである。

 

少なくともアートの本場である、
欧米では、
アートを議論することは、
アートにとって必須の条件でもあり、
またそれはアートのエレメントでもある。

しかしこの様な「批判的精神」は、
アートに限らず、
あらゆることに言える、
日本人はあらゆることの「議論」をしない。

日本人において、
「議論を嗜む」という「文化」が無く、
あくまで「ダメダシ」というのは、
「格」が違う人間がするものだと、
思い込んでいるのである。

 

これはある種「民主主義」の根幹とも繋がり、
日本においての大きな問題であると考えています。

 

 

 

 

美学者母

 

 

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