No.269

絶対的体験、つまり悟りや空、
縁起の体験をせずに心や意識を議論しているのは、
童貞が人生を語る様に無意味である。

text : mama(美学者母)
2018年7月20日(金曜日
)執筆

 

「意識」とはなんだろうか?
「心」とはなんだろうか?

それはすべての人が語れ、
そしてすべての人が理解でき、
そしてそれは記述できるものなのだろうか?

 

はて?
科学や哲学は世界の全てを記述できるのだろうか?

私たち人間は身をもって知っているはずで、
科学や哲学では記述不可能なものがあると。

私たちが日々過ごしているこの日常さえ、
私たちが日々体験しているこの日常を、
記述することさえできない。

体験とは絶対的に再現不可能かつ記述不可能である。
つまりそれは刹那的体験である。

その絶対的体験、
刹那的体験。

「全体が私であり、私が全体である。」 ある種その様な体験、

しかし体験を記述した時点で、
それはもう体験ではなくなる。

 

釈迦は何を悟ったのだろうか?

「空」や「縁起」とは一体なんなのか?

私は20歳で悟りました。

釈迦は教えを説いているのではないのです。
曼荼羅やお経は、
悟りの概念化なのです。

ですから、
そもそも「意識」というものは、
記述不可能なものです。

なぜなら「意識」とは体験です。

それを概念化する、
イメージや言語化する、
それを可能だとすることは、
人間としての未熟さです。

まずそういったことを、
大きな顔をしていっている人は、

「悟り」や「縁起」「空」、 その様な、
「絶対的体験」を、
そもそも体験していないのです。

 

私は以前から言説していますが、
例えば私が考え言説する「心」や「意識」、

それらは仏教的に言えば、
「曼荼羅」や「お経」です。

そもそも、
「悟り」や「縁起」、「空」、
それらの体験をしていない人間が、
「心」や「意識」について、
いくら議論しても、
私から観れば無意味なのです。

この様な話は、
「非科学的」とか「オカルト」と、
一見見られがちですが、
それは絶対的な間違いです。

なぜなら、
あなたは「今」を体験している。

それは誰も疑いようのない「真理」です。

 

余談な話をすれば、
大抵最先端の哲学や科学は、
LSDなどドラッグに支えられています。
それは手っ取り早い、
「絶対的体験」を、
体験させてくれるからです。

この様な事は、
なかなか表立って話は出てきませんwww

理由は明らかですが、

「絶対的体験」をしている人間と、
「絶対的体験」をしていない人間で、
次元が違うのです。

「絶対的体験」をしていない人間が、
いくら「心」や「意識」を議論したり、
それを考察、研究しても、

それは「絶対的」に、
到達しえない領域があるわけです。

 

 

 

 

美学者母

 

 

美学者母のスポンサー、サポーターになるにはこちら↓
クラウドファンディングでスポンサー、サポーターになろう↓