No.0115

反対しても決まったことには責任がある

text : mama(美学者母)
2016年1月15日(
金曜日)執筆

 

また久々にこんにちわぁ〜。
やっぱり文章を書く頻度が減ると、
なかなか腕が鈍ると再確認している次第ですが。
今の世の中で大事なことをシェアできていないと、
最近特に感じることが多いのですね。
特に政治に対する姿勢。
人それぞれに政治思想があり政治に対する考え方があるわけです。
それは誰も否定することができないものです。
そのような「違い」を乗り越えて、
「意思決定」するものが「民主主義」であり、
日本がとっている「議会制民主主義」です。
私は日本の「議会制民主主義」は優れていると考えています。
「政治に反対」するというのはそもそもどういう事なのでしょうか。
そもそも「議会制民主主義」を反対しているのでしょうか?
「共産国家」にでも革命をするという事なのでしょうか?
それとも「独裁国家」でしょうか?
非常にそこが大切だと思うのですね。
「政治体制」そのものを反対する事と、
「議会制民主主義」の中で意見の相違が起こるのとは、
これは次元が違う話なのです。
僕は現在の日本は後者であると考えています。
「議会制民主主義」を受け入れたという前提で、
「意見の相違」が起こっているという認識です。
では「議会制民主主義」での意見の相違の解決方法は?
それは「多数決」ですね。
これは小学校の生徒会長を選ぶときにも、
「選挙」という形で「生徒会長」を選ぶのと同じです。
そして日本では「司法」「立法」「行政」の、 三権分立が行われています。
例えば私たちが参加する国政選挙は、
「立法府」の選挙に参加しているわけです。
それも「選挙」という「多数決」で行なわれます。
そこで「反対」「NO」というキーワードを考えたいのです。
例えば、 「結果」に対して「反対」や「NO」を言った人に責任はないのか?
という単純な疑問です。
僕も経験のある事ですが、
衆議院議員選挙で自分が投票した人が「落選」したら?
もう僕たちには「議会制民主主義」の中での責任はないのか?
という単純明解な疑問です。 答えは簡単です、
「落選」した人に投票したとしても、
「当選」した人を「結果」として受け入れる責任があるのです。
最近よくこの「結果」に対する責任を放棄している人が多い、
そのように強く感じるのです。
政治とは「空想」ではなく「結果」なのです。
その「結果」に対してすべての国民に「責任」があります。
それは「結果」を「受け入れる」という事です。
そして理にかなった批判とは、
その「結果」を受け入れた上で行われるべきです。
今の、例えば安倍政権を批判している人たちは、
そもそもその「結果」を受け入れていないのですね。
これは非常に幼稚な振る舞いだと考えています。
「安倍政権にNO」とか「安倍は辞めろ」と言っている人たち。
自分の考えと違うから「反対」や「NO」と言う。
それは「議会制民主主義」においては、
「次元が違う」という事を理解するべきです。
自分の思いと違う「結果」に対して「責任」を持つ。
それが今の日本の「民主主義」に欠如している部分だと。
ここ最近強く感じているのです。
これから日本に外国人が増えてくるという世の中で、
意見の違いを乗り越えていかなければならないわけですから。
そのような根本的な哲学や原理を理解して。
多様な価値観の中で「意思決定」していく「作法」を、
学んでいかなければならないでしょう。

美学者母