No.0114

名字で個人の尊厳を訴える愚かさ

text : mama(美学者母)
2015年12月20日(
日曜日)執筆

 

みなさんお久しぶり〜!!!
最近は文章が書けてなかったので、 久々に書いてみます。
ちょっと腕が鈍っているかもしれませんwww
最近気になったニュースで夫婦別姓の問題。
最高裁判所で夫婦別姓を認めない規定が合憲とされました。
その裁判の原告が判決後に、
泣きながら個人の尊厳を訴えこの判決を批判していたわけです。
僕は安っぽいドラマの茶番劇をみている感覚を覚えました。
そもそも名字は個人の尊厳を担保する原理なのかと。。。
僕は全く違うと考えています。
それは名字というものが、
「家」制度や「血縁」制度におけるシンボルだからです。
そもそも名字というものは個人の尊厳の問題ではなく、
社会システム上の問題であるという事。
それは社会を構築する上で、 何を原理的に重要視するのかという事で、
日本では特に「家単位」や「血縁」を重要視するために、
社会制度として「作られた」ものなのです。
名字を大切にしたいという気持ちは否定しません、
それは「家」や「血縁」を大切にしたいと同義です。
それは特に日本では非常に強いつながりとして存在しています。
なので、今でも日本でそのような事を大切にしている家系では、
女の子しか生まれなかった「家」は、 婿養子をもらったりしています。
これは「家」や「血縁」を極度に意識しているものです。
何度も言いますが、 「名字」は社会システムの問題です。
国家なりが国をどう統治するのか、
どのような社会を形成していくのかという問題です。
今回原告の女性が「個人の尊厳」として「名字」を訴えているのは、
完全に間違いなのです。
その上で、 現在の「家」制度、「血縁」制度が崩壊してきている、
それも現実です。 「家」という単位、「血縁」という文脈も、
その意識が高いこの日本でさえ薄らいできています。
僕自身は「名字」はもとより、
「本名」にもアイデンティティーはありません。
みなさんご存知の通り、 このフェイスブックでは「美学者母」です。
僕を知っているほぼ99パーセントは本名を知りません。
そもそも「名字」にこだわるのが古いのです。
それは「家柄」や「血統」にこだわるのと同義です。
ある意味「差別」に繋がる原理でもあります。
最後に僕の「夫婦別姓」に対する見解。
今回の裁判で原告が個人の尊厳を訴えていたことは理解しがたい。
しかし社会システム上で考えたときに、
過去の「家」制度や「血縁」制度を見直す時期だと考えます。
そこで目に止まった記事が「虚構新聞」のこの記事です。

http://kyoko-np.net/2015121801.html

これは素晴らしいアイデアではないでしょうか。
「夫婦別姓」には「子供との別姓」という問題があります。
それならそもそも「名字を放棄」した方がいい!!!!
というのが僕の「夫婦別姓」の見解でありますwww
まぁすぐに現実にはならないでしょうが、
このような社会が現実に必要になると考えています。

美学者母