No.0102

東京五輪エンブレム問題は本当にデザインが問題か?

text : mama(美学者母)
2015年9月1日(
火曜日)執筆

 

先程この東京五輪エンブレム問題の会見をニコニコ動画で観ました。
はっきりと言うとこの問題は、
「デザイン」の問題では無く「クローズド社会」の問題だ。
という事である。
では「クローズド社会」とはなんなのか、
それは一部の人間が「権威」や「利権」を握って、
あたかもそれを握っている存在が、 「神」「超能力」「天才」の様に扱われ、 その他多数の人間はその存在になんら疑問を持たず、
それらの存在が示したものを盲目に追随する。
これは一つの「カルト宗教」と同じ構造なのだ。
しかし、 そのような「カルト構造」もアナログな時代には、
それなりの「意味」を持っていたのだ。
ものの「価値の構造」にはこの「カルト構造」が必要であるので、
一概に「カルト構造」=「悪」とは言えないのであるが、
その「構造」が現代の「ネット社会」に即さないのは明らかである。
これは「戦後左翼」とも同義であり、
「戦後左翼」が担ってきた「意味」も過去には大きかった。
しかし現代における「安保法制」「原発」などに反対する、
「感情論者」とはまったくの「別物」なのである。
現代の日本の「社会構造」において、
反体制などの古い政治思想は現代に即さないのと同じなのだ。
「もの」の「価値」を生成するメカニズムとして、
「クローズド」である事は絶対条件であるのだが、
現代の「ネット社会」において、
それは限りなく「フラット」に進んでいる。
それは「一極集中」であった「権威」や「利権」が、
「最大限分散」されるのである。
それはどのような「現象」を起こすのか、
「利権」や「権威」も最大限分散される社会が構築される。
それがまさに僕が押し進める「オープンソース社会」なのだ。
今回の東京五輪エンブレム問題、佐野研二郎問題を考える時に、
「デザイン原理」や「造形原理」を語るに足りないのである。
そもそもその選考プロセスに問題があるのであって、
その問題がある選考プロセスから生まれた「デザイン」が、
問題であるのは合理的帰結なのだ。
すなわち「オープンソース社会」が生み出した帰結であれば、
それはもし万が一「デザイン」に問題があったとしても、
そのプロセスが「オープンソース」に即して生まれた「デザイン」、
であればそれは「東京五輪エンブレム」として「成立」するのである。
これは「原理」なのである、
人間とはコンテクストの上で生きている生き物であるので、
その「文脈」に人々は生きている。
すなわち、現代に起きている「オープンソース社会」は、
すべてを公然に提示し「オープン」にさせる事で、
人々の「認知」に触れドラスティックに「裁き」を受けるのである。
少なくとも現代まで続いてきたあらゆる業界の「ブラックボックス」は、
その中味の露呈を余儀なくされ、
その恩恵を受けてきた一部の特権者達は死に絶えるであろう。
それは今回の「デザイン業界」に限らない、
一番の「ブラックボックス」を抱えている業界、
それは「アート」「美術」業界だ。
糞みたいな「権威」や「利権」にしがみついているモノ達よ、
貴方達が「好むと」「好まざると」。
貴方達の命が絶たれる日は近い、
それは貴方達自身が一番気がついているであろう事、
それはよく理解できる。
今回の「佐野研二郎」の一見でよく理解できただろう、
震えて眠れwww

美学者母