No.0093

少年Aは本当に〈悪〉なのか?

text : mama(美学者母)
2015年7月21日(
火曜日)執筆

 

まずはじめに断っておくが、 あるスケール感の概念的文脈において、
彼(少年A)が〈悪〉として認識されている事は、
私も十二分に把握している。
またここで述べていく事は、
そのあるスケール感においての概念的文脈における、
合理性を否定するものでないし、
また私自身も否定する意志もない事を述べておく。
ではなぜここで「少年Aは本当に〈悪〉なのか?」 という問いを明示するのか。 それは昨今の日本社会の風潮に疑問を持つからである。
物事のあらゆる事象というものは、
概念的認識においては2側面を有する事が原理である。
私たちの概念的認識においての〈善〉〈悪〉は、
〈善〉は〈悪〉を内在することで成立し、
〈悪〉は〈善〉を内在することで成立する。
すなわち、 この世界に〈絶対悪〉は無いし、 この世界に〈絶対善〉は無い。
私はこの文章を通じ、
今日本に蔓延している〈絶対〉主義的な幻想を浮彫りにし、
ある種の多様性がある社会の創造に、
アクティビストとして言論を通じてコミットしたいのである。
そしてこれらを踏まえながら、
私は最大限少年Aというこの刹那に生きている同士として、
彼を擁護する姿勢を示そうと思うのである。
まずその上でスケール感というものが非常に重要である。
私たちが日常的使用している概念的文脈のスケールではなく、
この社会や世界をアーキテクチャとして捉える事。
その事で少年Aが行った行為も含め、
すべての個別的人間が行う行為全てが、
個別的欲動を原理とする個別的意志に基づき、
個別的責任において個別的行為が行われているという、
あたりまえの事象を否定する事ができる。
それは数学的部分関数のように、
全体は部分を定義できるし部分は全体を定義できる、
それを応用したものである。
すなわち彼(少年A)の行為は、
彼以外の環境によって生み出されたとも言えるわけである。
これは医学的見知からも同じ事が言える、
例えば癌なども同じである。
癌は私たちの体というアーキテクチャが生み出したものである、
事実ある実験によると、
癌細胞のまわりの環境を変えると癌は死滅する結果が発表されている。
すなわち、少年Aと癌は同じであるのだ。
少年Aは普通の少年が環境により殺害を起こしたのである、
また癌細胞も通常細胞が環境により癌細胞になった。
これは僕の中では非常に合理的な概念的文脈である。
以上ここまでは少年Aが起こした行為について、
それが彼個人のみに責任があるのかという、 疑問を浮きぼりにした。
では次にもっと根源的に人を殺してもいいのか?
という事を考えていきたい。
人類が生まれてから今まで、
人間が他人を殺すという行為が無かった時代は、
存在するのだろうか?答えは「ノー」であろう。
では人間はなぜ他人を殺すのか、又殺し続けてきているのか。
それは原理的に自らの命を守るためであり、
それは命の連続性を守る為であり、
もっというとDNAの連鎖を守る為である。
すなわち人間は自らの命の連続性を守る為に、
他人を殺してきたのであり、
根本的な自己防衛反応であり行為である事がわかる。
当然昔の感覚でいえば、
自分が殺される前に他人を殺す事が生存競争で必須で、
絶対的に人間に必要だった能力だったであろう。
ではその時代に他人を殺す事が「悪」だったのだろうか。
それは容易にノーである事が理解できる。
では近代においてなぜ他人を殺す事が「悪」になったのか、
それは自分を直接殺す人間が極端に少なくなったからである。
もちろん自分の命を脅かす直接的な人間がいなくなれば、
他人を殺す事も必要なくなってくる。
それは社会の高度化、法の支配、ルールの制定。
それらで私たちは直接的に他人を殺す事が「悪」であるという、
ある種の意識の強化が行われた、
その上であくまで直接的に他人を殺す事を「悪」としている。
近代直接的に他人を殺す事は「悪」と定義づけられ、
それは目に見えるカタチで減少したのだ。
しかしそれと同時に社会の高度化、法の支配、ルールの制定。
私たちはそれらの環境を通じて、
間接的に数多くの人を殺している時代に生きているのである。
直接的に他人を殺す事は「悪」だけれど、
私たちが創りだした環境で間接的に他人を殺す事は「悪」ではないのだろうか? 私はこの事に強く違和感を覚えるのである。
凄く身近な問題で言うと、
私たちは道路で車を走らせる事を社会の一員として許している。
しかし交通事故で亡くなっている人たちはどれくらいいるのか?
学校や職場でイジメをする事を許している。
しかしイジメで亡くなっている人たちはどれくらいいるのか?
私たち現代の人間は原始的な人間の時代より、
少なくとも凄い数の人間を間接的に殺しているのである。
というかこの高度化した現代社会において、
間接的に他人を殺していない人間はいないのではないか。
ここまでを要約しますが、 まず少年Aを生み出したのは環境である。
その環境をとおして、誰しもが間接的な殺人を行っている。
もう殺人は個別的問題の時代ではない、
直接的に他人を殺した人間が〈悪〉ではない。
私たち一人一人が殺人を犯している当事者である。
上記を踏まえ次にその後少年Aが出版した本と、
それに関しての被害者遺族感情の問題。
この問題に対しても生命の連続性という観点から考えたい。
少年Aが殺したのはそもそも被害者であり遺族ではない。
まずそこをおさえておくべきである、
これは遺族と被害者の人格を同一視する事が多いが、
あくまで別人格であるという事実は理解するべきである。
その上で少年Aにとって本の出版は、
少年Aの命の連続性にとって絶対的に必要だったのだ。
すなわち彼の生き残る術であった。
表現とは原理的にそういったもので、
少年Aには生きる欲動を強く感じ、
本の出版はその表層として考える事ができる。
これは表現者としての私自身の体験からも言える事だが、
その表現の自由は守らなければならない。
なぜならば、 遺族なり他人が彼の表現の自由を否定する事は。
間接的に少年Aという人間を殺す事であるからである。
それはまさに、 少年Aが他人を殺した事と同義の環境を生成し、
新たにこの刹那に少年Aという人間を、
私たちが許した社会が創りだした環境が、
少年Aという人間を殺す事になるからだ。
遺族にとって被害者の存在が生きる欲動であったのであれば、
なおさら、少年Aが本を出版する事を〈悪〉としていいのか?
それは少年Aが本を出版する事が生きる欲動であるならば、
遺族がそれを一番理解する事ができる存在であるのではないか。
最後に、 私は個を〈悪〉に仕立てる時代は終わったと考えている。
高度な社会が生成され、法の支配、ルールが用いられている、
現代において個に〈悪〉は無い。
本質的に、 この世界や社会という環境にこそが〈悪〉を生成している根源で、 いかにその環境が〈悪〉という癌を生み出さないか、
そういった根本的な考え方の変化が求められている、
そんな時代だと強く感じている。
ある意味西洋的文脈における個人主義的な思想は終焉を迎えている。
またそれは全体主義とも違うものであり環境主義とでも言おう。
環境主義は個に権利や、義務、責任が発生すると考えるのではなく。
個の存在を環境におき、
環境に権利や義務、責任が発生するという考え方である。
こういった考え方は、
昨今物の所有などで行われている「シェア」という考え方が、
この環境主義と言えると考えている。
この文章を通して考えて頂きたいのは。
〈悪〉と言われている事に対して単純に疑問を持ち、
自ら考え行動する事です。
私が書いた事は多様な考え方の一つだと考えて下さい。
その上で、 どうぞ自らの頭で考えて下さい。

美学者母