No.0068

スマゲーと現代アートにおける愛着

text : mama(美学者母)
2015年5月6日(
水曜日)執筆

 

 

 

最近スマゲー(スマートフォン用ゲーム)の、
ドリスピ(ドリフトスピリッツ)、
にこの2週間位ハマっておりまして。
ゲームは基本的に初期のファミコンで止まっておりまして、
20年以上前のマリオブラザーズ以来ゲームはしていないのですが。
スマゲーというものを一度フィールドワークがてら初めてみましたw
ダウンロードは無料で、その後課金制で死んでも課金しないぞw
と誓って始めたのですが制作側の思惑通り課金してしまいましたw
素晴らしいプログラム設計ですw このドリスピの概要を説明しますと、
基本ドリフトゲームなのですが操作はゲーム中数回タップするくらいです。
その他に、
自分の車の車種やエンジンやその他部品をアップグレードしていく。
という本当に簡単なゲームです。
スマゲーの特徴として操作が簡単な事があげられますが、
昔のゲームは操作勝負な所が強かった様に思います。
その上で昔のゲームの楽しみ方と、
今のゲームの楽しみ方が随分違う様に感じます。
昔のゲームは単純にテクニックを楽しむ様なものが多かったわけですが、
今のゲームをやってみて感じた事はある種、現代アートの様な重層性です。
今回僕がドリスピで育てた車を写真にも添付しますが、
僕自身このゲームの中の車に非常に「愛着」をもっているのです。
ではなぜこのバーチャル世界の車に「愛着」を持つのでしょうか。
それは他でもなく「時間」や「意味」を「重層化」しているからです。
この「重層化」されたものは、
このバーチャルな車の造形から得る情報としては、
僕一人しかまず理解出来ないもので、個人的な「愛着」です。
現に、このバーチャルな車を観て皆さんは「愛着」がわかないでしょう。
この事は「現代アート」を理解する上で重要なキーワードです。
現代アートを理解出来る人と理解出来ない人のキャズムは、
先程申した、私がこの車に対する「愛着」が、
他人には感じられない事と同義です。
すなわち現代アートではある一定の美術の「時間」や「意味」を、
追体験しなければ、理解できないのは明白です。
すなわちその理解出来ないものには、
「愛着」は湧かないと言う事になります。
しかし現代アートで活動している身として残念ながら日本では、
そもそも現代アートに愛着を持たなくても、
他に同様のものが沢山あるという事。
すなわち「愛着」が湧くもの、言い換えればハイコンテクストなもの。
それが歴史が世界一長い国「日本」には世界一沢山あるんですね。
所謂「日本的」なものもそうですが「日本文化」そのものもそうです。
私たち日本人は記憶もそうですがある種ミームのようなもの、
はたまたDNAレベルで「時間」や「意味」が重層化されており、
それがハイコンテクストな「国」を生成しているのです。
今回スマゲーと現代アートを例に出しましたが、
現代のクリエイティビティは、
すべてハイコンテクストなものへ移り変わっています。
それは見た目や操作性は非常にスマートではあるのですが、
そこにインプットされた情報が膨大であるという特性を持ちはじめています。
これは一連の「情報弱者」という流れへと繋がっていきます。
この事は現代アートを理解出来る人と出来ない人のキャズムに非常に近い。
すなわち「情報弱者」と「情報強者」のキャズムが非常に深くなる。
この事は未来にどうゆう弊害を生み出すのか、
それは未来はもっと情報自体のインフラ化が進み、
本来享受するべき利益を享受出来ないという新しい「格差」を生み出します。
昨今日本も小学校や中学校で、
プログラミングを必須にするような動きもあるようです。
私はこの「情報」による「格差」は自己防衛しか無いと思います。
「情報収集」「情報分析」「情報発信」。
それらはこれから必須の能力になってくるのは確実です。