No.204

KOHHに送る〜君の忘却には心があった〜

text : mama(美学者母)
2017年3月16日(木曜日
)執筆

 

あの展覧会から何年たつのだろうか。
森村泰昌がディレクターを務めた横浜トリエンナーレ。
今でもあの展覧会は非常に興味深かった、

「世界の中心には忘却の海がある」
その展覧会のテーマにも大きな衝撃を受けた、
森村泰昌の計り知れない能力を感じた。

人間にとって忘却とはなんであろうか、
嫌なことを忘れる、
覚えていたはずなのに忘れる、
大事なことを忘れる、
しかし、
忘れたいのに忘れられない。

忘却とは記憶と対極の概念なのだろうか、
それは違う、 忘却とは記憶と一体である。
私たちは忘れることで記憶することができるのだ。
では私たち人間は何を忘れ、
何を記憶しているのだろうか。
そして忘れた記憶はどこにいったのだろうか。

さらに忘却の本質に迫る。
私たちは忘却を、
記憶が無くなる事と認識しているが、
実はそうではない、
忘却とは、
記憶が私たちの認識できない次元に昇華されているのだ。

すなわち忘却が貴方自身を私たち自身を定義するのだ。
人間は3歳までにその人格のほとんどを形成するという、
しかしほとんどの人間は、
3歳までの記憶を忘却している。
これは何を意味しているのだろうか、
私たちの本質は、
私たちの記憶には存在していない、
すなわち私たちの記憶という、
認識可能な領域には、
実は私自身が私自身である本質は無いのである。

記憶重視の現代社会、
この忘却というものは、
私たち人間の本質的なテーマではないだろうか。
特に日本の教育は記憶重視の教育である。
記憶する事が美化され、
記憶する事を美徳とする。

昨今ではコンピューターの発達に伴い、
人工知能、ニューラルネットワークによる、
ディープラーニングなどの研究が盛んである。
さらに知識の脳へのアップデートも可能になっている。

そんな中で人間が人間たらしめる原理や真理、
それらが重要な本質となっている。

そんな中で私は、
「忘却」 それこそが人間が人間たらしめる原理だと考える。
もしコンピューター、人工知能が、 恣意的に忘却をしても、
それは本質的な忘却ではない。
コンピューターや人工知能に、
「忘却」は不可能なのである。

忘却とは、
人間が人間たらしめる、
貴方が貴方たらしめる、
私が私たらしめる、
最小のアーキテクチャなのではないだろうか。

私がこの「忘却」に本質を見出したのは、
2014年の横浜トリエンナーレ、
「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」 をきっかけに、
2016年にリリースされた 宇多田ヒカル「忘却 featuring KOHH」、
を経て熟考したプロセスである。

最後に忘却の本質を申し上げるとともに、
宇多田ヒカル「忘却 featuring KOHH」MUSIC VIDEO、
をぜひご視聴頂きたい。

 

美学者母