No.0061

国立国際美術館「高松次郎制作の軌跡」展

text : mama(美学者母)
2015年4月18日(
土曜日)執筆

 

昨日、国立国際美術館「高松次郎制作の軌跡」展行ってきました。
僕自身は、 「ハイレッドセンター」→「赤瀬川原平」→「トマソン」。
といった形で「トマソン」の概念には大変共鳴しております。
もちろん「ハイレッドセンター」の直接行動についても同じです。
今回「ハイレッドセンター」の、
高松次郎の作品展という事で大変興味深かった。
僕は関西で大阪在住という事もあり、
ハイレッドセンターが語られるよりも、
「具体」が語られる方が多い、というか「具体」オンリーという感じ。
そんな「具体」が語られる事が多い環境で育った僕は、
今回の高松次郎の作品展は非常に勉強になりました。
まず作品展ですが、
「高松次郎制作の軌跡」という名の通り年代順に作品が並べられ、
作品の変遷や、その中での作者の葛藤が手に取るように理解出来ます。
全体を通して僕が注目したのはやはり初期の方の作品です。
「点」というシリーズがありますがこの作品の哲学や美術的構造が、
その後の作品にも一貫して作品に埋め込まれています。
具体的にこの「点」にはどのような哲学や美術的構造が埋め込まれているか。
それを簡単に説明しますと、
「点」の特性として、
点が存在しているとも存在していないとも言える、
アンチノミーを抱えているという事です。
これは今回の高松次郎の作品で、
一貫してインプットされている美術的構造です。
その次に注目したいのが、「遠近法」です。
特に「遠近法」の立体の作品は非常に面白い、
一見すると最近流行のトリックアートですが。
これは西洋美術のコンテクストに則った美術的作法で創られています。
それは勿論、西洋美術への批判的精神により成立しています。
しかしその批判的精神の中にも、ある種西洋美術への憧れや、
東洋人としての劣等感など、
東洋人が如何にして西洋美術にコミットできるのか、
というもがきを感じます。
僕が一番残念に思ったのが晩年の作品です。
結局この頃は恐らく自身の評価もある程度さだまったのだと考えます。
ある意味、典型的な抽象画に落ち着いてしまっています。
ある種それまで西洋美術への批判的精神により活かされていたものが、
一気に西洋美術本体へ合流してしまいその魅力を失っているのです。
それはそもそも私たち東洋人が西洋美術にどうコミットするのか、
という美術的本質を諦めてしまった様にも感じました。
という事で展覧会のレーポートはこれぐらいです。
僕たち日本人が現代アートをしていく上で非常に大切な資料となります。
それは日本人が西洋美術の現代アート、アメリカの現代アート、
将又中国の現代アートにコミットしていく上で、
日本現代アートの古典として重要だからです。
もの派、具体美術、ハイレッドセンター等は、日本現代アートの古典です。
最後ですが、 具体美術とハイレッドセンターを比較して感じた事ですが。
具体美術は非常に日本的だなと、
そしてハイレッドセンターは非常にインテリジェンスで西洋的です。
この辺は結構今回の展覧会やハイレッドセンターの活動を観て、
感じた所です。