No.0040

表現の自由の論争について

text : mama(美学者母)
2015年1月15日(
木曜日)執筆

 

最近「表現の自由」が論争を巻き起こしているが、
そもそも「表現の自由」と「表現後の意味」は、
根本的に分けて考えるべきである。
何においても「表現の自由」は守られなければならない。
しかしその表現したものをどう扱うのか、
そして、
どういう意味に置かれるのかと言う事を問題にしなければならないのである。
同じ表現をしても「芸術」になったり「犯罪に」なったりするわけで、
そもそも「表現の自由」が問題なのではなく、
「表現後の意味」が問題なのである。
その点において芸術家や美術家はプロであるから、
自らの「表現後の意味」に対して全責任を持たなければならない。
では一般市民はどうであろうか、
これは一般的な犯罪と同義なのである。
例えば一般で起こる犯罪はプロの犯罪者であろうが、
一般市民であろうが犯罪は同じ様に罰せられる。
表現においてもそれが「表現後の意味」において犯罪であるならば、
それは罰せられる対象であると言えよう。
では「「表現後の意味」において犯罪であるとはどういう事だろうか。
これは通常の犯罪と同様に難しい問題になってくる。
例えば「万引き」一つにしても、
「故意」であるか「故意」でないかによって、
「犯罪」となるかならないかは分かれるのである。
それらと同様に、
「表現後の意味」において「故意」であるか「故意」でないか、
という認定は非常に難しい問題であると考える。
しかし一つの「犯罪」としての線引きとしては、
その「表現後の意味」に「悪意」や「誰かを貶める」事を「故意」にした、
という事は「犯罪」として「成立」すべきであると考える。
また芸術家や美術家のプロは表現者としてのプロであり、
自らが表現したものへの責任。
つまり「表現後の意味」において「故意」であろうが「故意」でなかろうが、
全責任を持つ必要がある。
それが表現のプロだと思うし、
「犯罪」という事以上に、
表現者の「社会的責任」はいつの時代も重大だと言う事だ。
「表現は自由」だが「表現後の意味」を先に読み取り、
コントロールする事は非常に困難である。
安易な「表現」を安易に「拡散」させる事は、
一般人の方々にはできるだけ辞めてほしいと思う。
しかし最後にもう一度言っておくが、
「表現は自由」なのだし「表現は素晴らしい」。
安易に「拡散」などしなくてもいいわけです。
そもそも「表現」は「拡散」する事が目的ではありません。
自己の表現を「自己完結」しても「表現」なのです。
そういった方を一般の方々にはオススメ致します。