No.0037

脳を酷使する事

text : mama(美学者母)
2014年11月20日(
木曜日)執筆

 

例えば僕はプロ野球選手を目指して、
小さい頃からある種の英才教育を受けていた。
小学校の頃は少年野球の名門「岸和田リトルリーグ」。
中学校はその上のクラスで「岸和田シニアリーグ」。
高校は所謂野球留学で鳥取県の「倉吉北高校」。
その都度、日本では有数の指導を受け。
そして日本でも有数の練習の厳しさと。
そして日本でもトップレベルの選手達と。
大先輩にはあの清原さんが居てる。
清原と同じグラウンドで、同じレベルの練習。
今で言えば、今年の日本シリーズで後輩が阪神で投げていた。
この選手について言えば、 キャッチボールもした事もあれば、
まったく同時期に同じグラウンドで野球をしていた。
僕と同級生には「清原二世」と言われるほど、 凄い選手が居た。
他にも一流の選手ばかり。 PL学園、江の川、明徳義塾。
同級生で甲子園に出ていないのはほんの数人で、
逆に甲子園にでた選手ばかりだ。
その様にスポーツという場所で、
僕は小さい頃から肉体を酷使してきたワケだ。
当然一流レベルでの肉体の酷使は怪我と隣り合わせであり、
先述した「清原二世」と言われた選手も故障で潰れた。
そんなスポーツ選手を目指していた僕が、
ある時から、アートに目覚めたワケだ。
そして現代アートの中でコンセプト重視の作品制作へ。
中途半端にする事が出来ない僕は、
それからと言うものの「脳」を酷使する事になる。
その作業は今も終わっていない。
最近よく考える事が、 スポーツもアートも変わらないと言う事だ。
それは一流になろうとするならば、 自分自身を追い込まなければならない、
酷使しなければならないと言う事。
その点において、怪我や故障は隣り合わせである事は、
スポーツもアートも変わらないと言う事。
例えば、過去の哲学者や芸術家は皆何かしらの心の疾患を患う。
それは何故か、 哲学者や芸術家はある種の心を使ったアスリートなのだ。
野球選手がヒジを壊すのと何も変わらないのだ。
プロ野球選手で一度も怪我をした事が無い選手が果たしているだろうか。
哲学者や芸術家も心を病まずして歴史的な人間になれた人間がいるのか。
人間は一定のレベルを超えた時、 ある一流のレベルに達しようとするとき。
それは、一般レベルのキャパシティを超えるとき。
人間の筋肉にしても運動能力にしても普段は過度に制御されて、
本当の全力というものが使えない様にされている。
それは脳にも言える事で、
人間が普段使っている脳はその一部の能力しか使っていない。
結局この辺の事が一流とは何なのかという問いに対する、
一番具体的な解になるのではないかと最近思うのである。